アサガオの観察

夏休みがもうすぐ始まろうとする朝、庭で朝顔が咲いた。
終業式前に、小学生の男の子が学校から持ち帰った朝顔だ。
この家で咲いた最初の花に気づいたのは、曾祖母ひとり。
「朝顔に釣瓶とられてもらい水」
鉢の前でつぶやいた。

その後、毎朝花がいくつも咲き、家族も気づくようになった。
水やりは男の子の役目となるはずだったが、夏休み初日から忘れている。
曾祖母を含めると4世代という、今時珍しい家族構成のおかげで、誰かが水やりをしてくれた。

敷地のほとんどを広い家が占めているため、庭はかなり狭い。
木と呼べそうなものは1本だけだ。
芝生がわずかにあり、端に、枯れてしまった鉢植えが2,3個転がっている。
唯一花を咲かせているのが、朝顔だった。

7月21日
予定した開花が遅れた。
がっかりした。
慣れない環境のせいだろう。

着いた当初は大きな家に感動し、アサガオが似合う和室もありそうだと期待した。
ところが、そううまくはいかなかった。
小学校の校舎の脇で発芽したことを知った時の感覚に似ている。
入谷の朝顔市で脚光を浴びることはない、と私はあの時悟った。
発芽し、成長したことを喜ばなくては。
少なくとも、次世代を残すことは可能なのだから。

この家の庭は驚くほど狭い。
他の花と調和がとれるだろうかと、学校から子どもが運ぶ道すがら心配したのは、取り越し苦労だった。
アサガオ以外、何もない。
せめて、高く伸びるように紐か網でも張ってもらえると嬉しいのだが。
いや、要求ばかりしてはいけない。
どんな過酷な中でも生き延びることこそが、力になるはずだ。

8月1日
家族で一番の早起きは、ひいおばあさんだ。
着替えると、庭をよたよたと歩き回る。
アサガオの鉢の前に立つと、呟く。
「朝顔に釣瓶とられてもらい水」
初めて聞いた時は、感心した。
さすが年長者は違う。
ただ、これ以外に何もつぶやかないのがわかると、その感動も薄れ始めている。
単なる老化なのか、アサガオに関する教養が少ないのか、いまだ判断できずにいる。

暇なのだから、早起きしなくてもいいのにと、家族が口にするのを聞いたことがある。
ひいおばあさんが立てる物音で、他の大人は目が覚めてしまうらしい。
大きな家ではあるが、トイレやドアの音が十分に聞こえる程度の広さでしかない。
ひいおばあさんは、たぶん、寝るのが早いのだろう。
早く寝るから早く起きてしまうのだ。

「若い人にはわからないんだよ」
ひいおばあさんは文句を言うが、彼女自身、若いときは年寄りの苦労が分からなかったに違いない。
朝早くから花をめでてくれるのは嬉しいのだが、足元がおぼつかないのが心配だ。
ひいおばあさんが倒れたら、鉢も共倒れだ。
それだけは困る。
共倒れになるのは、家族だけにしてほしい。

8月8日
アサガオのプラスチックの鉢の色が、おばあさんは気に入らない様子だ。
庭に出てくると、必ず文句を言う。
青い色が安っぽいというのだ。
最初は聞き流していたが、さすがにうんざりしてくる。

こちらがあの鉢を選んだわけではない。
アサガオの種と鉢がセットになっているのだから、仕方がない。
プラスチックのほうが、小学生も運びやすかろう。
私自身、素焼きの鉢が好みだが、私の意見が通るはずだなどと世の中を甘く見てはいない。
大切なことは、発芽し、開花し、種を作ることなのだ。

それにしても、この美しい花にまず心が引き寄せられないおばあさんが、私には信じられない。
ひいおばあさんに対抗して、心にぐっとくる和歌でも口ずさんでほしいものだ。
おばあさんの意見では、身の回りのもののセンスは、成長する子どもに影響してくるという。
静かに拝聴している私だが、どうも納得がいかない。

咲いたばかりのみずみずしい花、それはどんな情操教育よりも素晴らしいはずだ。
私は心からそう思っている。
たかがアサガオの鉢程度で、子どものセンスが悪くなるとは、私にはどうしても思えない。
毎朝開くアサガオの花は美しい。
マイナスの事象にひきずられるのか、プラスの方向に自分を持っていくのか、
どうもおばあさんはマイナスタイプらしい。
残念だ。

おばあさんが身に着けている服のほうが、子どもに悪影響を与えるかもしれないとは
考えないのだろうか。
もう少し気を遣ってもいいと、正直思う。
おばあさんは、外出の際、かなりおしゃれだ。
その割には、家にいるときは、かなりお粗末で驚いてしまう。
誰のために着飾っているのか、私はおばあさんの後姿に問いかける。
値段が高いものにすべきだと言っているわけではない。
身近に暮らす家族のため、いや、家にいるおばあさん自身のためにきれいになってほしい。
もちろん、それでも、アサガオの花の美しさには到底及ばないが。

感情が高ぶってしまったが、ふと、気づいた。
家族の中で、一番水やりをしてくれる人はおばあさんだった。
学校から鉢を持ち帰ったあの小学生などは、一度も水やりをしていない。
土をこぼさずに持ち帰っただけでも、ほめてやらなくてはいけないが。
水やりをしてくれるからこそ、おばあさんは鉢の色が気になるのだろう。
おばあさんの良さを、もう少しで忘れるところだった。
あぶないあぶない。
お天道様に顔向けできないところだった。
明日、きれいな花を咲かせることだけに専念しよう。

8月10日
おじいさんの姿をこのところ、目にしていない。
入院しているというが、大丈夫だろうか。
この家で入院する人がいるとすれば、ひいおばあさんだと誰もが思っていた。
一番驚いているのは、病院にいるおじいさんにちがいない。
世の中、何が起きるかわからない。
水やりなどしてくれたわけではないが、おじいさんのことは気になる。

「すぐにしおれなきゃ、持って行って見せるのにね」
誰かがそう言ったのが聞こえた。
アサガオの花は儚いから美しいのだ。
何もわかっていない奴だ。
花を見たら、おじいさんは喜んでくれるかもしれない。
しかし、鉢のまま病人に持っていくのは、根付くといって人間は嫌うらしい。
病院に行かなくてすむと思うと、おじいさんには悪いがほっとする。

おじいさんは日がな、庭にいる人だった。
姿を目にすることが多いせいか、私も親しさを感じてしまった。
家の中にいると、おばあさんと喧嘩するのが原因らしい。
庭にいれば、好きな煙草を吸うのも自由だ。
缶詰の空き缶を手に、狭い庭でくつろいでいるおじいさんの姿は、好ましく感じられた。

座るのは、古くなった浴室用の椅子。
アサガオを前にして、毎朝髭を剃る。
「お義父さん、いつもすみません」と婿殿が気の毒がる。
「いや、こっちのほうが好きなんだ。洗面所なんかより、ずっと気持ちがいい」
プラスチックの朝顔の鉢を嫌うおばあさんは、古い風呂の椅子も気に入らない。
「こんなもの、やめてくださいよ」
「プラスチックじゃないぞ。色もあんな青じゃない。これは正真正銘の木製だ」
おじいさんが反撃する。
「あぶないんですよ。雨風に晒されているから、壊れるかもしれないし」
「気にしてくれてありがとう。お前は本当に優しいよなあ」
にやにやしながらおじいさんは言う。

壊れかけた風呂の椅子が庭にあることが、おばあさんは嫌なのだ。
分かっていながら、おばあさんをからかうおじいさん。
おばあさんは朝から娘におじいさんの悪口を言い、うっぷんを晴らしている。
相手を必要としていることを考えると、案外、夫婦仲は悪くないのかもしれない。

長年連れ添った夫婦が一体どういうものなのか、私には判断がつかない。
まず、夫婦というものがよくわからないのだから、仕方がない。
イチョウにでも聞くしかない。
「あなたは私が必要ないんでしょ」などと口にするのは、まだ若い証拠なのだろうか。
必要なのかそうでないのかもわからず、仲がいいのか悪いのかも考えず一緒にいることができる
関係を、夫婦と呼ぶのかもしれないと私なりに結論付けた。
例えば、寄生植物と寄生されている植物なのだろうか。
ちょっと違うような気もする。

おじいさんは庭に長くいる割には、草むしりや水やりはやらない。
庭でじっとしているだけだから、人間というよりは、庭の草木に近い。
文句を言うおばあさんは、ちょこちょこ動く。
アサガオに肥料を足すのも、おばあさんだ。
アサガオにとってどちらが有益かといえば、それはおばあさんにちがいない。
おばあさんの悪口を言ってはいけないと改めて思った。

しかし、おじいさんがいないのは、やはり寂しい。
おじいさんの姿がないと、この庭に何かが欠けているように思える。
命に別状はないと、誰かが来客に言っていた。
はやく退院して、信じられないくらいのこの狭い庭に座ってほしいものだ。

8月16日
お盆が終わって一息ついた。
おじいさんが入院して見舞いに出かけるせいか、夏休みで外出が多いせいか、
庭の水やりは少しずつ後回しになっている。
この暑さの中で、植物が耐えているのを忘れていいものだろうか。

今朝はかなりの雨がふり、ようやく庭に生気が戻った。
雑草も含め、緑の色が美しい。
「おかあさん、カブトムシいないかな」
「そんなもの、うちの庭にいるわけないじゃない」
「つまんないの」
「あーあ、草ぼうぼうね。おとうさん、お願い。ねえ、おとうさん。
いやだ、いないの?さっきまでいたのに。だいちゃん、おとうさん知らない?」
「知らない。おかあさん、アイス食べたい」
家の中から、大きな声が聞こえる。

アイスアイスと言う割には、小学生にもなって、学校から持ち帰ったアサガオの世話はしない。
草ぼうぼうで悪かったね。
私はつぶやく。
たしかに、芝生の庭というよりは、雑草が茂った一区画に過ぎない。
それでも、毎朝アサガオはきれいな花を咲かせているのだ。

8月18日
「おれもひと花咲かせるんだ」
この家の若いお父さんが、毎朝、そう言って出かけているのを、家族は誰も知らない。
「がんばれ、オヤジ」と声援を送りたいが、見守ることしかできない。
お父さんの意思を尊重したいが、アサガオの美しい花は、すぐにしぼむ。
「サラリーマンのひと花にしては、可憐すぎないか?
午前中にしぼんでしまうのは、あぶなくないか?
ひと花咲かせなかった君の年齢は、もう昼頃ではないのか?」
できることなら、お父さんに尋ねたい。

ついつい心配してしまう。
だいたい、ひと花咲かせるようなタイプの人間は、あんなことを口にするのだろうか。
ヒマワリは何も言わずに大輪の花を咲かせる。
アサガオの花もまた同じだ。
持って生まれた力を出すのみだ。
とはいえ、時々ではあるにしろ、お父さんが水やりをしてくれたことを私は忘れない。
なかなか心優しい人である。
「花なんぞ咲かせなくてもいいから、もっとしたたかに頑張れ、雑草のように」
叫んでいる私の声を感じてほしい。

小学校の校舎の隅で一緒に並んでいた仲間たちは、一体どうしているのだろう。
元気に花を咲かせているだろうか。
1学期、お互いに種から双葉を出し、競い合って大きくなった。
私はトップではなかったが、少なくともトップ集団にはいた。
今の私は、たくさん花を咲かせ、それなりに頑張っている。
ただ、自分ひとりで努力しているせいか、少々物足りない。
もっと切磋琢磨したかったと思う。
今日は勝った、ああ、負けたと仲間たちとくだらない話で盛り上がったら、
花がしぼんだ午後も別の楽しみがあったに違いない。

ひとりであっても、私は全てを観察しているのだ。
花が枯れた後にできる小さな種の中に、アサガオにとって有益な情報を書き込み、次世代に手渡す。
それが私の仕事だ。
今、伝えているものが私の情報だと想像されては困る。
アサガオの情報を安易に拡散してはいけないから、ついつい、ここの家族の話をしているだけだ。
夏休みの宿題に、アサガオの観察日記を書く小学生などとはレベルが違う。
この家の子などは、学校が休みになれば宿題すべてを忘れている。
子どもにアイスを呑気に渡しているおかあさんも同様だ。
夏の終わりになって、慌てるにちがいない。
こうやって親から子に引き継がれる因子がある。

そういえば、この家のお父さんは、ときどき私のそばに来ては、鉢を持ち上げたり、
花をのぞきこんだりしている。
彼もまた、何かの情報をアサガオから得ようとしているのかもしれない。

8月28日
ようやく小学生の男の子が、宿題の観察日記を思い出したらしく、大騒ぎしている。
おばあちゃんに、「花の色、何色だった?」と何度も聞いているのには呆れた。
それすらわかっていなかったのだろうか。
「今年はお盆が忙しかったからねえ、法事も重なったし」
ひいおばあちゃんが慰めている。
そのことと宿題をしなかったことがつながるわけがない。

母親と息子は今頃になって私の前に来て、なにやら観察している。
「よかった、まだつぼみがあるわよ。
明日の朝、早起きして1枚だけ絵を描いたらいいんじゃない?
どうにかなるわよ」
お母さんは息子に悪知恵を授けている。
「しおれているのも描けばいいよね。
ほら、ここにある」
「いまさら観察日記はむつかしいから、みんなから昔の朝顔の思い出を聞いたら?
みんなそれぞれに思い出があると思うから」
「おかあさんの大ちゃんは、朝顔好きだった?」
「わかんない。だってまだ歩けなかったんだもの。だいちゃんは朝顔、好き?」
「うん、好きだよ」
「だったら、おかあさんの大ちゃんもきっと好きだったと思う」

ふたりの会話を私は理解できず、混乱した。
「おかあさんの大ちゃん」と目の前にいる「だいちゃん」は同一人物ではないのか?
「じゃあ、ひいおばあちゃんに聞いてみよう」
だいちゃんは走って家の中に入ってしまった。

おかあさんだけ、まだ私の前に立っている。
しゃがむと、葉を触っている。
何をするのだろうかと、私は緊張した。
心ここにあらずの人は、そばにある植物の葉をちぎる習性がある。
ちぎるなよ、と私は叫びそうになった。
「ごめんね、大ちゃん。
きれいな朝顔、見せてあげたかったね。
でも、お父さんとお母さんを亡くしたもうひとりのだいちゃんを大切に育てているから、許してね。
きっと、天国で私の大ちゃんは今のだいちゃんのお父さんとお母さんと一緒に仲良くしていると思うの。
だって、いつも拝んでいるから。
私の大ちゃんを守ってくださいって」
少し涙ぐんでいるせいか、お母さんはとってもきれいに見えた。

息子を亡くした父母と、両親を亡くした息子か。
ようやく私は理解し、呑気な親子と決めつけたことを恥じた。
「うん、好きだよ」
「きれいな朝顔」
というふたりの言葉が心に沁みたからでもあったが。
そろそろ花もおしまいにしようかとおもっていたが、あとひとふんばりしようと決心した。
お父さんではないが、もうひと花咲かせなくてはアサガオの沽券にかかわる。

8月31日
アサガオ本来の大切な情報収集は、これまで通り行なっている。
今年の気温、湿度、天気、花をどれだけつけたか、その他、
種子に保存すべき情報は確実に得た。
その点は満足しているが、この家の人間たちへの私の観察眼は、誇れるものではない。
残念だが、率直に認めよう。
この謙虚さが、人間よりも素晴らしいと私は思う。
だからこそ、あの美しい花が生まれるのだ。

ひとつの会話をきっかけに、この家族の構成が非常に複雑なことがわかった。
交通事故で両親を亡くした孫を抱えて、あのおばあさんはさぞかし大変だったことだろう。
入院中のおじいさんは、夫ではないというのが私の推測だ。
それでは、いったいどういう関係なのかと気になるが、残念ながら、私にはお手上げだ。
直接、おじいさんに聞いてみたくなる。

しかし、人間は私の言葉を理解できない。
私の前で、ひとりごとでも言ってくれればいいのだが。
人間は「植物に語り掛けるといいのよ」とわかったことをいい、クラシック音楽をかけたりもする。
こちらが人間に話しかけているとは、考えようともしない。
呆れる人間たちだ。
しかも、「植物人間」などと我々を冒涜する言葉を平気で使う。

私がおじいさんとおばあさんを通じて理解したことがひとつある。
夫婦と勘違いするくらいの親しさは、どうやら人間でも作れるということだ。
ひいおばあさんは、おばあさんの親戚らしい。
道理で、法事の多い家のはずだ。
それぞれに家族があるのだから。
「私がいつ死んでもだいちゃんは大丈夫。
本当にありがとうね。」
おばあさんがお母さんに何度も言っているのを、私は聞いた。
たしかに、そのとおりだ。
アサガオの私が枯れても、次に続く種は育っている。
その安心感で、私は秋を待っている。

「お義母さんはまだ死なないから、大丈夫よ。
お義母さんの前に、ひいおばあちゃんやおじいちゃんの世話があるから、
お父さんと3人でがんばらなくちゃ」
お母さんの声が聞こえる。
「まったく、この家はややこしいわよね。
おじいさんが倒れたら大変だから、みんなで支えなくちゃね」
おばあさんが笑って答えている。
私だってこの夏、きれいな花を咲かせてあんたたちを支えたんだけどね。
そうつぶやきたかったが、私は黙っていた。

9月10日
夏も終わろうとしている。
暑さは残ってはいるが、「暑さ寒さも彼岸まで」と人間は言っているではないか。
相変わらず、おばあさんは律儀に水をくれる。
もう水やりしなくてもいいかもしれない。
そう感じている。
しかし、おばあさんのおかげで、私はこの夏を大過なく過ごせたのだ。

「だいちゃん、朝顔、学校に持って帰らなくていいの?」
おばあちゃんは孫息子に尋ねるが、新学期のだいちゃんは運動会のかけっこしか頭にない。
どうやら足は速いらしい。
よかった、誰にも取柄はあるものだと、私は安心する。

おじいさんも退院したようだ。
庭に出ている姿を一度だけ見かけたが、珍しく、ずっと家の中にいる。
おじいさんが弱って見えたのは、私の取り越し苦労だろうか。
とはいえ、枯れかかったアサガオのほうが、ずっと情けない姿になっていることだろう。
もう私の役目は終わったのだから仕方がない。

9月14日
ひいおばあさんが熱心に行っていることがある。
アサガオの種を採取しているのだ。
マッチ箱にティッシュペーパーを敷き、種をそっといれる。
この家には、まだマッチ箱が存在するらしい。
驚いた。

「ひいおばあちゃん、朝顔抜いちゃおうか。もう枯れてるよ」
「まだまだ。枯れているように見えるけど、ほら、この種、まだ青いでしょ。
もう少し待ってあげようね」
「ひいおばあちゃん、今度は金魚を入れようよ」
「朝顔の鉢に?植木鉢ってものは、穴が開いているんだよ。
だいちゃんは気づかなかったのかねえ」
「セロテープで止めたら?赤い金魚入れたらきれいだよ。
僕、夏に金魚すくいしたとき、そう思ったんだ」
「へええ。だいちゃんは面白いこと考えるねえ。
たしかに、青い鉢に赤い金魚はきれいだねえ」

私は呆れて聞いている。
おばあちゃんとだいちゃんは、この鉢の穴をテープで止められると思っているのだろうか。
私は金魚を哀れに思った。
すぐに水がなくなり、ひからびるにちがいない。

9月15日
金魚鉢の話は、家族で盛り上がったらしい。
私の横に、金盥が置いてある。
捨てようか迷っていた金盥が復活したことが嬉しいらしく、おばあさんが皆に説明している。
「まずは、この盥に水を入れます。そして、朝顔の鉢をその中に浸します。
そうすれば、底に穴が開いていても大丈夫。
水替えもきっと楽よ。鉢の底に、その時だけ蓋でもすればいいの」

口で言うほど、うまくいくとは思えない。
大体、そこまで鉢に固執する必要があるのだろうか。
あんなに鉢の青さに不満を持っていたおばあさんが、赤い金魚との対比だと安っぽい青さも許せるらしい。
私は少々不愉快になった。
夏中きれいな花を咲かせた私に対し、枯れた途端に態度が変わるのはいかがなものだろうか。
余韻というものを感じてほしいものだ。
花は終わったとしても、私だってまだ生きながらえているのだ。

配慮に欠けた会話をしている家族に対して冷ややかになりつつも、私はある光景を思い浮かべていた。
金盥に青い鉢が沈み、その中に小さな赤い金魚が一匹泳いでいる。
家族がみんなでのぞきこんでいる。
確かに、これもいい光景だ。
それでも、アサガオの花に勝つことはない。
「だいちゃん、もう少し待とうね」
ひいおばあさんがそう言ってくれた。
私はひとり微笑んだ。


Novel(百物語)
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