Novel(百物語)
02ten

つめくさ

地上への狭い階段。
地下鉄の改札を抜け、通路を歩き、はしごのような階段にたどり着く。
僕はのぼる前に毎回、四角く切り取られた空を眺めてしまう。
無意識の儀式みたいなものだ。
雨が降り出しそうな灰色の空、ぼんやりした水色の桜の頃の空、うんざりすぎるくらい青い夏の空。
誰も下りてこないし、僕を追い越す人もいない。
ほんとに不思議な出口だ。
急な傾斜は、高名な詩人が転がり落ちて、こときれた、伝説の地下のバーを思い出させる。
このバーのあるビルの二階で働いていた頃、先輩があまりにリアルに詩人の死に顔を何度も僕に伝えるものだから、怖くて一度も行くことができなかった。
行ってみたかったのに。
僕はたぶんかわいい女の子よりずっと恐がりなんだと思う。
まったく男は辛いよ。
こわがりでも我慢して、隠して生きているんだから。
ごめん。
何言いたいんだよおって、どつきそうなきみの顔が浮かぶ。
そう、バーのことじゃなくて、ぼくが君に伝えたいのは、切り取られた青い空のことなんだ。
毎日、それを眺める度に、浮かぶ言葉がある。
「手の届く幸せ」
これがきみへのプレゼントの言葉です。

さとしって変な奴なんだ。
誰もあたしの彼なんて思ってない。
「仲いいんですよ」って、店長に言っても、
「あいつもおまえの子分なのか。
おまえさあ、いいかげん、ガキ引き連れてかっこつけるんじゃなくて、いい奴みつけろよ」って説教されちゃうしね。
いまさら、「いや、さとしが彼なんです」なんて言えないじゃない。

このあいだ、さとしから長い留守電もらったんだ。
意味わかんなくて、何度も聞いた。
手の届く幸せって言葉がプレゼントなんだって。
最初、頭に来た。
悪かったねえ、どうせ私は手の届くくらいの女ですよってねえ。
でも、あいつ、なんだかうじゃうじゃ言うんだよ。
地下鉄の階段から見あげる四角い空がああだのこうだの。
うるさっ。
さとしがそばにいたら、一発けりでもいれてた、きっと。

あたしもバカでねえ。
バイクで配達のときなんか、空、見ちゃうんだよね。
手の届かないものは憧れたり、夢ですって口にするくせに、手の届く幸せに向かって努力してんのかなあって思っちゃった。
絶対、さとしの罠にひっかかってると思うけどね。
来週の休み、バイクの後ろにさとしを乗っけて遠出しようかなあ。

もう一回電話します。ごめんね。怒らないでね。
きみに電話したくてたまらなくなるときがあるんだ。
連れていってくれるんだって?
うれしいな。
まだ乗せてもらったことないんだよね。
ただ、少し怖い。
バイクの後ろに二時間も乗ってられるか、自信がない。
だって、きみはものすごくとばしそうだから。
僕はきみにつかまっていられるのかなあ。

地下鉄から見える空、昨夜は月が見えたんだ。
きれいだった。
階段を上るのがもったいなかった。
細いほそい三日月。
あそこまでのぼっていける。
そして美しい三日月に、もしかしたら触れることができる。
そんな感じがするんだ、あの空を眺めていると。

きみにこうやって話していたら、ぼくがきみを大好きなのも、いつかわかってもらえると。
変な奴かもしれないけど、大好きだよ。

ほんとにさとしは変な奴だ。
なんであたしはさとしが好きなんだろう?
絶対こいつは彼氏なんかじゃないと、切ってみるんだけど、
ちょっと保留って自分に言い訳してる。

このあいだの走りは気持ちよかった。
こわがりのさとしのことだから、途中でおりるって言い出すんじゃないかって、あたしもほんとは心配していた。
あいつ、がんばった。
きっと、びびってたとは思うよ。
あたしに、がしっとつかまっていたし、なあんにも口をきかなかった。
着いたとき、ほめてやったら、ようやく思い出したように笑った。
さとしは案外、メットが似合うんだよね。
今度あたしの古いのあげようかな。
もう嫌だっていうかもしれない。

さとしを連れていったのは、高校の頃、バイクでとばしていったキャンプ場。
あんまり知られてなくて、穴場なんだ。
いつもひとりで行ってた。
湖のほとりで、夜、寝袋の中にいると、ぽちゃんって魚の跳ねる音が聞える。
静かだから、目がさめて、腹ばいになってたばこなんかすってた。
「ゆりはすげえよ」
クラスの奴は、すぐそういう。
そう言えば、あたしが喜ぶとでも思ってるのか。
心のなかでは汚い言葉でののしっていたけど、あたしは知らん顔をして、あいつらの言葉をながしていた。
あいつらに反応するのもあほらしい。
きつい態度とれば怖がるくせに、いっちょまえに保険かけるんだよね。
「私、ゆりさん、すごいと思ってるんだ」
とか言って。

あんたらに、なにかコメントしてもらいたいとあたしが思ってる?
うるせえんだよ。
いっつもそう思ってた。
今考えると、あたしも貧困だよね。言葉が。
あいつらのこと、えらそうにいえない。
ただ、高校生には無理だった。
自分を守るのが精一杯だった。


ゆりさん、ありがとう。
たのしかった。
それしか言えない。
きみを好きなのは変わらないけど、「お前なんか消えろ」っていわれたら、それだって受け入れるよ。
ただ、きみがそんなひどいこと言わない限り、好きだ好きだって言い続けることにします。
あのキャンプ場の草むらに寝ころんで、そう思ったんだ。
黄色い花、たんぽぽみたいだけど、もっとほそっこい華奢な花。
たくさん咲いていた。
花を踏みつけないように注意しながら、そっと座る。
背中を地面にそわせると、草むらとおもえた緑が、突然視界をさえぎる壁に変わる。
自分が昆虫になった気分だ。
立っているときは気づかなかったが、しろつめくさが僕の腰のあたりにたくさんある。
ときどきあかつめくさも。
草むらに横たわって、目をつぶる。
まぶたを通して太陽を感じる。
きみの声が聞こえる。
「つめくさだ。
さとしをどこかに持っていくみたいだね」
えっ。
しろつめくさって、白い花のつめくさなんだ。
僕は思わず起きあがった。
驚いた。

見渡すと、白いつめくさ、赤いつめくさ。
そのさきにゆりさんがいる。
細い幹に寄りかかって。
足下にふたつヘルメット。
「外国から運んできた品物、この草が木箱に入っていたんだって。
たしか、江戸時代」
また寝転がったぼくの上に、ゆりさんの声が流れる。
ときどきゆりさんはこんな優しい声をだす。
かわいい女の子というよりは、きちんと整備されたバイクのエンジンが動き出すときの、あの爽やかさかな。
仕事のときだけじゃない、ふたりでドライブしていても、ゆりさんはこわい。
「先輩、怒っているんですか?」って聞いて、もっと怒られた同期の男がいたけど、僕だってそう聞きたくなるときはたまにある。
「ゆりさんって顔が怖いんだよ」って、僕はそいつにこっそり教えてやった。
自分に厳しすぎるから、相手を責めていないのに、ゆりさんが自分に向けている目がそのまま現れているんだ。
同期は読解力のない奴で、僕のことばをありのままに上司のゆりさんに告げた。
いわゆるちくりさ。
今度は、ぼくがゆりさんに呼び出された。
でも、そのおかげでぼくらは仲良くなれたんだから。

つめくさか。
寝ているといい気分。
太陽の光が僕の体にあたり、草のにおいがする。
こんな棺桶があったらいいね。
いつ再発するかわからない病気を
ポケットにいれて、なんだか一人前でない仕事をしていると、こんなぼくですら自分にうんざりするときがある。
でも、そういうイライラも消えていく。
ゆりさん、ありがとう。