Novel(百物語)
02ten

印伝ルビー

私は、中指に指輪をはめている。右手、左手、日によってちがうが、毎日つけている。結婚指輪は、ずいぶん前に、きつくなってはずしてしまった。ただ、この指輪だけは外さない。
真っ赤な石だ。これが本物のルビーだったら、いったいどのくらいの価値になるのだろうか。素人ならルビーと誤解してもおかしくはない色合いだが、立派すぎる大きさのせいで誰もそう思わない。
「きれいな石ね」
誰もがそう言う。
「なんという石?」
聞かれると、私は印伝ルビーと答える。相手はよくわからぬまま、へええと返す。
なぜ印伝というのかは知らないが、合成ルビーのことらしい。大正期、人気のあったものだと知った。本物のルビーに手が届かない人が、この石で楽しんだらしい。
「偽物かもしれないけれど、それなりに古くなり、僕はいい石だと思っています。色も見事ですしね。
ルビーは天然物が少ないんです」
作り変えてもらったとき、担当者がそういった。私の指輪は古いため、石を支える爪が甘くなっていた。
小学校の六年生になろうとしている私に指輪を贈ってくれたおばあさんもそういった。
「あたしには本物の大切なルビーなの。おじいさんが買ってくれたんだから」
誰にも言わずに引き出しの中にしまっておいた。おばあさんの知恵で、誰もそこに指輪があるとはわからない。おかげで、指輪を隠しておくのは簡単だった。

まだ幼稚園に入る前の頃、母は私を連れて、ある家に行くようになった。そこで何をするわけではない。私のために行っているわけではないことは、すぐにわかった。だからこそ、私も母のお供で気軽に出かけた。その家に行くと、いつも他に客がいた。半日、ゆっくり過ごし、お昼を食べて、おやつを楽しんで帰る。母は年配の女性と話をし、他の人ともおしゃべりしている。
その家にでかけるのを、母が楽しみにしているのは、子どもの私にも分かった。私に対する母の態度が優しいというのではなく、うきうきしているのだ。
私が失敗していても、気づかない。いつもはそんなことは決してありえない。母の言葉は優しかったが、私が行儀悪くしないように注意されるのが常だった。私が何かすると、母は神経質に「大丈夫?」と聞くばかりだ。
「誰かに淹れてもらうお茶って、ほんとにおいしい」
母は嬉しそうに言う。私だって、おかあさんに教えられてからは、時にはお茶を淹れるし、インスタントコーヒーだって作ってあげることもある。おかあさんはそういうことを忘れているんだろうか。私は悔しかった。

おばあさんは、その家にいつもいた。庭でしゃがんでいたりもする。何をしているのかなとこっそり見に行くと、雑草を抜いている。私をじろりと見るが、何も言わない。最初の頃は、自分たち同様、おばあさんも客のひとりだと私は思っていた。トイレのドアが開かず、ガチャガチャやっていると
「入ってるよ、わからないかね」
と内側から声がする。そういう態度をとるのは、人がたくさんいる家でも、おばあさんだけだった。
最初はびっくりしたが、そのうち私はおばあさんに慣れていった。おばあさんが私たちと一緒にお茶を飲んだりお菓子を食べることは一度もなかった。
「おかあさんもこちらにどうぞ」
家の人が声をかけても、おばあさんは来なかった。耳が遠いのかもしれないと、私はおばあさんを観察した。おばあさんは客をあまり歓迎していないようだと、私は感じた。そうはいうものの、私だって「あら、かわいいお嬢ちゃんね」
といった挨拶をする人は苦手だった。鏡を見なくても、自分がかわいいかそうでないかくらいは分かっている。私にとって、草むしりをしている不愛想なおばあさんのほうが楽だった。

「おばあちゃんはここに住んでるの?」
ある日、私は聞いた。トイレのドアの前だった。
「ここはあたしのうちさ」
おばあさんはトイレから出てきた私を見下ろして言った。やっぱりそうか、と私は納得した。どうもそうらしいと、私も推測してはいた。
「みんなが来るのはうるさい?嫌?」
私は小さな声で訊ねた。
「後でね」
おばあさんはそう言って、私を押しのけ、急いでトイレに入った。長いこと出てこなかった。私はトイレの外で我慢強くおばあさんを待った。
「いやじゃないけど、うるさいよ。でも、年取ったら少しは我慢しなくちゃね」
出てきたおばあさんは私の顔を見ると、いばった顔をしてそう言った。鼻にしわを寄せたが、他にもしわがあるからあんまり大したことはない。
「あの人はおばあちゃんの子どもなの?」
私は母が嬉しそうにしゃべっている相手を指さして言った。
「人を指さすもんじゃない」
おばあさんがきりりと言った。
「ごめんなさい」
私は慌てて言った。
たしか、両親からも以前にたしなめられたことがあった。
「あんたは聞きたがり屋だねえ。あの人は娘じゃないけれど、息子の嫁さんだから娘みたいなものさ。
あたしのことを気にしてくれているんだから、いい人だよ」
「息子さんはどんな人?」
聞いてすぐに、しまったと思った。
また、聞きたがり屋だと注意されるにちがいない。
「息子は死んじゃったんだよ」
おばあさんは、大変なはずのことをさらりと言った。私が黙っていると
「ずいぶん前のことだから」
とおばあさんは私に気を遣うように言った。

おばあちゃんの息子のお嫁さんは、退職したばかりの校長先生だった。子育てに悩む母親のために自宅を開放していたことを、私はずっと後から知った。
私には年の離れた兄がいて、とんでもなくやんちゃな男の子だった。やっていいことと悪いことを、目の前で誰かが実演し、そのことを大人が真剣に怒る場面まで見せられるのは、幼い子どもの私にとって最高の教科書だった。私があまりに小さいせいか、流石の兄も私を泣かせることはない。兄を見ていると飽きなかった。私は兄が好きだった。
私の女の子らしいおもちゃは、兄が興味を示すと必ず壊れてしまう。リカちゃん人形は首がもげていた。兄がリカちゃんを過酷な戦闘に参加させたからだ。顔がないせいで、私の遊び相手は私のリカちゃんを怖がった。私がいくらリカちゃんだと説明してもだめだった。顔がないくらいでなぜわからないのだろうと、私はため息をつくのだった。
母は兄の子育てに苦労していた。文句を言いに来る親に対し、ぺこぺこお辞儀する母を私はいつも後ろから眺めていた。いつのまにか、母があの家に行く回数も少なくなった。私が母と一緒の行動をとらなくなっただけかもしれない。
しばらくすると、母は兄の愚痴を言わなくなった。兄のいたずらや、やんちゃが消えたわけではないのにと私は不思議だった。母と一緒に歩いていると、出会ったお母さんが兄の優秀さをほめそやす。なるほど、と私は理解した。兄がずば抜けて優秀なことがわかったころには、母の悩みはすっかり消えたように見えた。

転勤が決まったのは、私が五年生を終えるころだった。兄は大学が決まり、さっさと家から出ていった。それ以前から、兄は私には遠い世界の人だった。
「あと一年、小学校を終えるまでいないと、かわいそうじゃないかしら」
母は私の転校を心配していた。
「小学校は、ここのみんなと一緒かもしれないが、中学はどうするんだ。卒業を待って引っ越ししたら、あっちの中学校に知り合いは誰もいないんだよ。結局、おんなじことさ」
父の言葉で、私も一緒に行くことがあっけなく決まった。父自身、単身赴任が嫌だっただけかもしれない。
私も引っ越しに前向きだった。兄が気楽に家を出ていったのに、私だけ残るなんてまっぴらだった。兄が通った中学校に進んで、比較されるのも嬉しくはなかった。私は兄のように周りに迷惑をかけるような人間ではないが、特に優れたところもない。普通よりも下で、誰も気づかないような女の子だ。兄が嫌いなわけではないが、兄のことなど誰も知らない場所で過ごしてみたかった。
引っ越しが本決まりになると、母は忙しくなった。家の片付けだけでなく、挨拶回りに毎日出かけている。私は、ふとあの家のことを思い出した。おばあさんはどうしているのだろう。母が、あの家に出かけている様子はなかった。夕食時に、父や私に向かって、あの家この家の話をしているから、母のリストを見るまでもない。
母が気づかないことを私がやってやろう、私は心に決めた。土曜日、私はおばあさんの家に向かった。場所を憶えているか自信がなかったが、駅を降りると道順がすぐにわかったのは嬉しかった。あれから何年も経っているのに、駅前の店のたたずまいも変わらず、マンションすら建っていなかった。

私は意気揚々とインターホンを押した。母が忘れている挨拶を自分が代わりにするつもりだった。
誰も出てこない。門の前で待っているうちに、私の舞い上がっていた気持ちも次第にしぼんでいった。もう帰ろう、何回そう思ったかわからない。
それでも私は待ち続けた。あのおばあさんはまだ生きていると思いたかった。ずっと連絡すらしなかったのに、引っ越すとわかるとさよならくらいは言いたかった。インターホンは相変わらず無音だったが、ようやくドアが小さく開いた。私よりずっと小さくなったおばあさんが、そこにいた。
「こんにちは」
と挨拶しても、おばあさんは疑わしそうな目で私を見ている。おばあさんは変わっていなくても、あの当時幼かった私はもうすぐ小学六年生になるのだ。ようやく私もそのことに気がついた。ずいぶん前に母とこの家に遊びにきたことを、私はもごもごと説明した。予想もしなかったから、うまく言えない。
おばあさんが理解するまでに、かなり時間がかかった。
「そりゃ悪かった。いたずらじゃないかと思ってね。近ごろは詐欺も多いから」
おばあさんは素直に謝り、私は驚いた。私の記憶の中にあるおばあさんは、そんな人ではなかった。意地悪というわけではないが、素直に詫びるタイプではない。さらに驚いたことに、おばあさんは私を家の中に招き入れ、お茶をだしてくれた。
家の中は、なんとなくがらんとして見えた。相変わらず客がたくさんいるのだろうと、私は勝手に想像していたから、かなりとまどってしまった。おばあさんは、なおいっそうしわだらけになっていたが、元気そうに見えた。
「静かになりましたね」
私が言うと、おばあさんは笑った。
「よく憶えていたね」
庭を見ると、雑草が生えていた。
「草取りしましょうか?」
私は慣れない敬語を使うのに苦労した。
「そうだね、ありがたいけど、時間大丈夫?」
頷くと、私は元気に立ち上がった。おばあさんは膝が悪いらしく、しゃがむのがきついのだと説明してくれた。
おばあさんのサンダルを借りて庭に出て、私は草をむしった。庭が広いのは大変だったが、楽しかった。おばあさんの家には小さな池もあった。これは私の記憶にはなかった。覗き込んでみたが、魚の影はなかった。自分の家とは全く違うこの庭に、もっと遊びにくればよかったと私は後悔していた。友だちと冒険ごっこもできそうな庭だ。木登りや池に入ることも、頼めば許してくれたかもしれない。
「ありがとう、もういいよ。本当にきれいになった。ありがとうね」
草をむしったり枯葉を集めたりと庭の仕事は楽しかったから、おばあさんが声をかけてくれたのが
かえって残念だった。

洗面所に行って手を洗うと、おばあさんは手招きして、自分の部屋に呼び入れた。
「もう会えないだろうから、お駄賃代わりに、これをあげるね」
おばあさんが見せてくれたのは、真っ赤な大きな宝石がついている指輪だった。びっくりして私が黙っていると、おばあさんは言った。
「本物の石じゃないから。心配しなくても大丈夫。でも、あたしにとっては偽物なんかじゃないの。おじいさんが買ってくれた指輪でね、あたしが大切にしていたものなんだよ。今のあんたはまだつけられないけど、大人になったら使ってちょうだい」
おばあさんは小さな椅子に座ると、そばにある木製のワゴンを引き寄せた。
「これをそのまま持っていたら、おかしいだろ。おかあさんに怒られるかもしれないしね。だから、ちょっと工夫をするから。見ていてごらん」
おばあさんはワゴンの上にいくつか載せてある箱から、何かを取り出した。私は近寄って、おばあさんの手元をのぞいた。貝殻だった。たぶんアサリ貝だと私は思った。貝殻の外側だけ、きれいな布が貼ってあった。
おばあさんは裁縫箱を開け、針に糸を通した。指輪を綿にくるむと、器用に貝殻の中に入れ、もう一つの貝殻で蓋をした。一個の貝殻の形にすると、周囲を針で綴じていった。半分ほど貝殻をとじたところで、
「そうそう」
とおばあさんは言い、箱から小さな布を一枚出した。おばあさんは、小さな布に何かを書いて、それを貝殻の中に押し込んだ。最後は、自分の髪からヘアピンを抜くと、それを使ってきれいに納めた。
私はおばあさんの横に立って、その作業を眺めていた。年を取っているとは思えないほど、おばあさんの針さばきは器用だった。家庭科の先生よりも上手だった。貝の口を完全に閉じる前に、おばあさんはきれいな紐を挟み込んだ。なるほど、キーホルダーみたいなものを作っていたんだと私は感心した。
「さあ、できた」
おばあさんは嬉しそうに言って、私に紐のついている蛤を渡した。きれいな紐を手に取って、蛤を振ると、コトコトと音がする。誰が見ても、鈴でも入っているように思える。まさか、指輪の隠し場所だとは思えない。
「ありがとうございます」
私は心から礼を言った。
指輪を見たときは、いくらなんでももらえないと思ったが、これなら母にもわからない。両親に怒られないと分かったら、自分のものになるのは嬉しかった。
「あの布に何を書いたの?」
「内緒と言いたいところだけど、大したことじゃない。印伝ルビーと書いたんだよ。それがあの石の名前」
「インドのルビー?」
「そうじゃない。ルビーじゃない。でも、いい指輪だよ」
私も大きく頷いた。ちょっと見ただけだったが、いい指輪であることは、私も同感だった。
「もうひとつ、あたしの名前もね」
おばあさんは、ちょっと照れた顔をした。
「あんたが疑われないように、私が贈ったってね」

その日、私は夕方までおばあさんと一緒にいた。私の家に比べると、おばあさんの家は静かすぎた。私が以前に来た、客があふれている家と同じとは思えなかった。おばあさんは私とおしゃべりしてくれたが、時々、黙ってしまう。私がじっと見ると、「何を言おうとしていたか、忘れてしまうんだよね」
と照れ臭そうに言った。
「あたしなんか、しょっちゅうあるよ。いつもおかあさんから怒られる」
私が言うと、おばあさんは嬉しそうな顔をした。
「そうだよね、子どもと年寄りはみんなそうだね」

おばあさんは家の中をすべて見せてくれた。私の家は引っ越しの準備で、今使わないものはすべて段ボール箱に入っている。そのせいか、家は広々としている。おばあさんの家も、どこか今の私の家に似ていた。それでも、ちがうところがたくさんあった。箪笥も変わっていた。どこにも、ハンガーを掛ける場所がなかった。引き出しには、ブランコのように揺れる取っ手がついていて、その取っ手があたる場所には、花の形を切り抜いたような金属の板が貼ってある。そんな箪笥を私は見たことがなかった。
「きれいだね。こういうのが自分の部屋にあったらいいね」
私がそういうと、おばあさんはにっこり笑った。
「今の子は、古いものをいいと言ってくれるんだね。これはあたしが結婚するとき、両親が買ってくれたものなんだよ。やっぱりずっと部屋にあるほうがいいよね」
おばあさんは、なぜかうんうんと頷いていた。

暗くなる前に帰らないと、家の人が心配する、とおばあさんは言った。外はまだ明るい。お茶もお菓子もおいしい。なにより、おばあさんの家の中を、私としてはもうちょっと探検したかった。しかし、おばあさんの言うとおりにしようと、あきらめた。あんなにきれいな指輪ももらったのだ。考えてみたら、心残りもなかった。
「引っ越し先でも元気でね」
おばあさんはそう言って、手を振ってくれた。
「おばあちゃんも元気でね」
私も大きな声でそう言い、走って駅に向かった。手紙を書こうと思えば書ける年なのだから、住所や名前を聞けばよかったと思ったのはずいぶん後になってからだ。おかあさんと違い、私はきちんとおばあさんに挨拶をしたんだよ、その時の私は元気いっぱいだった。

指輪を指にはめたのは大人になってからだったが、おばあさんの指輪はいつも私のそばにあった。机の引き出しの中、あるいはペンケースの中にいつもあった。ちりめんの布で覆われた、かわいい貝殻のキーホルダー、誰もがそう思った。最高の隠し場所だ。
小学校、中学校、高校と、いくつになっても私が手元においているのを、母は勘違いしていた。友人からお別れの時にもらった宝物を、ずっと大事にしている子だと思いこんでいる。あのおばあさんが友人と言えるのかは、私もよくわからない。ただ、最後に会った時は、何となくお友だちという感じが湧いた。早くあのきれいな指輪をつけたいなと、私が思っているなんて、母が想像できるはずもない。人は秘密を持つことによって、成長する。母の知らないことがあると思っただけで、自分に余裕ができる。
おばあさんの工夫は、悪知恵ともいえる。人が考えられないいたずらで周りを呆れさせていた兄が賢いのは当然だと、ようやく私も理解した。兄は幼いころから、人一倍、知恵をつかっていたのだ。それがいたずらだけでなく、学問や仕事にも使うようになっただけだ。
思春期の母への反抗心も、指輪のおかげで乗り越えられることもあった。私が幼いころ、母は私を味方につけていた。やんちゃと言うには程度を越している兄に疲れ切っていたからにちがいない。ところが、優秀な兄と私をつい比較してしまうらしく、途中からは兄のほうが母のお気に入りになった。
母が兄を味方にしようとしても、兄は全く変わらない。それでも、母にとっては自慢の息子だった。有名大学を卒業し、私たちの想像以上の能力を兄が見せるようになるころには、兄の周りには女性がたくさんいるようになった。母は、兄が一緒に遊んだり、家に連れてくる若い女性を毎回気にしていた。数年後に、兄が結婚することになったときは大変だった。私には、非の打ちどころのない女性に見えるのだが、母には兄の結婚相手としては気に入らないらしい。それならそういえばいいのだが、兄の前では決して言わない。
そのころから、また、母は私を味方につけるようになった。
「やっぱり娘よね」
が母の口癖になり、大学生の私は苦笑した。母は私と旅行をしたがるようになり、私も仕方なく五回に一回は親孝行をした。
「お父さんと行けばいいのに」
「だって、おとうさんはまだ忙しいんだもの」
旅先のレストランやホテルで、母は昔話をする。考えてみれば、母も寂しいのかもしれないと、私も一応耳を傾けた。
「あんたって、その貝殻、まだ持ってるのね。物持ちのいい子だねえ」
私の化粧ポーチに指輪の入っている貝のキーホルダーを目に留めたらしく、母は穏やかに言う。
「そういえば、おかあさん、お兄ちゃんに困っているころ、よく私を連れてどこかのお宅に行っていたよね」
母はしばらく、何のことかというような表情をしていたが、ようやく思い出したようだった。
「あんたって、物持ちがいいだけじゃなくて、記憶のいい子だねえ。それが受験に活かされたらもっとよかったのにね」
不要なひと言だったが、つい、兄と比較してしまうのだろう。私は母の言葉の最後は聞き流した。
「校長先生だった方でねえ。たしか、市の広報誌に載っていたのよ。自宅を開放して、育児カフェをしているって。藁にもすがる思いで出かけていたのよねえ。
あそこは楽しかったわ。同じ思いのおかあさんとおしゃべりしていると、気が紛れてねえ。あんたを連れて行ってたんだっけ」
そう、おかあさんは私のことなど半分忘れていましたよ。私は心の中でそう呟く。それが助かったのも確かだ。私はリードにつながれていない子犬のように、勝手に遊びまわることができたのだから。
「でも、残念だったのよね。先生が交通事故で突然お亡くなりになっちゃって。あそこのお宅に行くこともできなくなったから。立派なお葬式だったわね」
「えっ、お嫁さん、いつ死んだの?」
思わず私は大声を出した。
「そりゃ、先生は結婚なさってたから、あのおばあさんから見たらお嫁さんだろうけどね。ご主人は早くに亡くなってらしたから、あの家の主人は先生でしょ」
母は思い出をたどるように言う。
「いつ死んだの?」
私は気がせいてまたもや大声を出した。
「あんたね、死んだ死んだって言わないの。亡くなったっていうものよ。まったく敬語も使えないんだから」
母は私の驚きにまったく気づかず、いつもの母娘だと思い込んで会話を続けていた。
「いつだったかしらね、お兄ちゃんがまだ中学生じゃなかったかしら。
そうそう、三者面談で学校に行って、進路相談をして、いったん家に帰って喪服に着替えたのよね。
お兄ちゃんも連れて行ったのよ、お通夜に。あんたは知らないかもしれないけれど、お世話になった先生なんだからって」
「じゃあ、あたしたちが引っ越しする前に、先生は亡くなられたの?」
「もちろんよ。あのおばあさんのほうがずっと元気で、人生わからないものねってお葬式でみんなそう言ったんだから。あれから、あそこの家にひとりでいらしたんじゃないの?
でも、もう亡くなってるわね。あの当時で、ずいぶんお年寄りだったものね。そのうちに、おとうさんとあたしもこれからのこと、考えなくちゃ。お兄ちゃんに世話になりたくないし、あんたはどうなるかわかんないしね」
母の話はいつのまにかそれて、自分の老後の心配に変わっている。
私はそれどころではなかった。引っ越しの前にさよならを言いに行ったとき、そのずっと前から、おばあさんはひとりであの家に暮らしていたのだ。たしかに、あの家に、おばあさん以外の人が住んでいる雰囲気はなかった。おばあさんもお嫁さんの話をすることもなかった。がらんとしていたのは、引っ越しの準備だったのだろうか。おばあさんもまた、私にそっとさよならを言いたかったのかもしれない。

黙ってしまった私を、母は勘違いしていた。
「あんたがどうなるかわからないって、そういう意味じゃないのよ。お兄ちゃんよりあんたのほうが、ずっと頼りになるもの。一緒に暮らさなくても、いいのよ。やっぱり娘がいてよかったわ」
夕食には何かおいしいものを食べに行こうと、母は私に提案した。母に同意して安心させ、私は近くを散歩してくると部屋を出た。
「若い人はいいわね。私なんて疲れちゃった。しばらく寝てるわ」
貝のキーホルダーをポケットに入れて、私はホテルの部屋を出た。

私はあてどもなくさまよった。土産物店、カフェとこぎれいな店がならんでいるが、入る気にはなれない。酔い覚ましのような散歩なのだから。貝のキーホルダーを握りしめ、私はただただ歩いた。
そのうち、気持ちが落ち着いてきた。貝に隠された秘密のおかげで、私はどちらというと平穏に生きてきたような気がする。年も離れ、能力も比べようもなく違う兄に、私は嫌な感情が湧いたことがない。ただ、引っ越しは正解だった。私は兄の影響も受けず、当たり前の、どこにでもあるような中学生活を送ることができた。指輪が身近にあるおかげで、振り子が揺れるような、母の子どものかわいがり方を認めることもできた。
貝のキーホルダーは私の宝物だったが、指輪がなかったら、秘密が含まれていなかったらどうだろう。いくらおばあさんが作ってくれたものであっても、私はなくしてしまったかもしれない。母にとって、一時期の兄は指輪だった。そうだよね、おかあさん、私もその気持ちわかるよ。高校生の私は生意気にもそう思ったものだった。自分が大したものでないことがわかっていても、私はいじけることがなかった。本物のルビーでなくても、あの指輪はきれいだった。本物以上のものなのよ、とおばあさんは口にした。その言葉が私をいつも励ましてくれた。
一番苦しかったのは、貝殻を開けたくなる気持ちを抑えることだった。一度でいいから指輪をつけてみたい。何度そう思ったか、わからない。そういう時は、私はおばあさんの針仕事を思い出そうとした。家庭科の先生よりも器用に針を動かす指先。
おばあさんのかがった糸を、ハサミで切ってばらばらにしてしまうのは惜しかった。そう思うと、心が静まった。

歩きながらも、私は時々顔を上げ、城を探した。キャッスルホテルという名前でわかるように、ホテルは城のすぐそばにあった。歴史に疎い私ですら知っている、有名な城だ。城を目指して歩けば、ホテルに戻ることは容易だった。
そろそろ母のもとに帰ろうと私は思った。茜色の夕陽が、城を照らしている。美しかった。私は立ち止まり、色濃く変化していく空の色を眺め、また歩き始めた。おばあさんの指輪に向かって歩いている、そんな気がした。