Novel(百物語)
02ten

アキエ

親子三代 その2 祖母のアキエ


「おばあちゃんの知り合いって、カタカナばっかりだね」
年賀状を見ていた孫の桃子が、新種の虫でも発見したかのように言ったのはいつごろだったろうか。
小学生になっていたことだけはたしかだ。
「そうだっけ。どれ、見せてごらん」
桃子が手渡す年賀状を改めて見ると、確かにそうだ。
ハル、フミエ、ナル、フサエ。
ミチ子もキヨ子もカズ子もフジ子も、漢字は子の部分だけだ。
ふさえさん、かずこさん、みっちゃんと呼び合っていたから、表記なんて考えたこともなかった。
年賀状のやり取りはしていないが、仕事仲間だったタキさん、ミエさんもそうかもしれない。
「おばあちゃんも、本当はカタカナなんじゃない?」
孫に聞かれても、即答できない。
「かもしれないね」
私のあやふやな物言いに、桃子は笑った。
「おばあちゃんのまねして、あたしもカタカナにしようかな。
桃っていう字、小さく書こうとしても大きくなっちゃう。
右側の部分がすごくむつかしい」
「ああ、兆ね。億より上の単位だね」
「おくって何?」
「とってもたくさんのお金っていうと分かるかな」
「えっ、そうなの?
だったらうまく書けるようにしよう。
ちょうっていうから蝶々だと思っていた」
蝶と言われて喜ぶ女の子のほうが多いと思うが、桃子はどうもそうではないらしい。
そういえば、桃子は高校生のころ、私がどうやって仕事を始めたのか、やたらに関心をもっていた。

名前がカタカナなんて、今の時代では想像もできないのかもしれない。
キラキラネームとカタカナで呼んではいるものの、実際のキラキラネームは漢字だ。
私の育った頃とはずいぶん違うものだ。
名前がそうなら、感じ方そのものが変化しても当然だ。
私が夫にずっと隠していた感情も、今の若い人が聞いたら笑いとばされるに違いない。
「何それ。夜にひとりで歩いていたっていいじゃない。
悪いことしているわけでもないのに。
結婚してたって関係ないよ」
しかし、当時の私はそう思ったのだ。
夫が入院しているとはいえ、病院からの帰り道、街をふらつくなんてよいことではないと。
夜の街を歩いただけで、どきどきした。
思いがけないことだが、解放感があった。
私の秘密だ。

夫は60代で亡くなったが、最初に入院したのは40を過ぎたころだった。
息子はまだ高校生で、あの当時は部活の野球がすべてだった。
結局、夫は20年近く、病気と共に生きた。
50半ばまではどうにか勤めていたが、その後は自宅で静養していた。
息子が40で亡くなったのは、やはり遺伝なのだろう。
同じ病気だったのだから。
夫が最初に倒れたとき、私はどうしてよいか何もわからなかった。
搬送された病院は、家からかなり離れていた。
会社から連絡を受け、あわてて病院に駆け付けた。
検査を終えたらすぐに手術をすると伝えられたが、医師の言葉がなかなか頭に入ってこなかった。
明日、何時に病院にいなくてはならないのか、その時刻と病院の住所と電話番号をメモするのが精いっぱいだった。
病院から家にどうやって帰ったのか、憶えていない。
その日から、夫が入院している病院に通う毎日が始まった。
街をふらついたのは、そんなころだった。

夜の商店街は、店先の電球のせいでとてもきれいに見えた。
八百屋や魚屋が片づけに精を出す一方で、飲み屋が看板を出し、仕事を始める。
まるで、芝居の書き割りのようだった。
ぼんやりと私は眺めていたのだろう。
店先に立ちどまられては邪魔だと言う代わりに、八百屋のおじさんは売れ残りの野菜を私に勧めてきた。
「奥さん、きゅうり買ってよ。
安くするからさ。
一皿分の値段で、ここのきゅうり、全部だよ。
ほら、買った買った」
私は何が何だかわからないままに、山盛りのきゅうりを買わされた。
「ありがとね。また来てよ」
そう言われても、いくら食べても減りそうもない量のきゅうりだ。
病院から持ち帰った夫の下着やタオルもあるというのに、私はやたらに重たいきゅうりまでぶら下げて家路についた。
きゅうりは、そのまま冷蔵庫に入れていても傷んでしまう。
どうしたらいいだろうかと悩んだ末に、私は糠漬けの素を買いにスーパーに行った。
久しぶりに糠の中に手を差し込むと、以前はあまり好きではなかったはずのあの感覚が、妙に気持ちよかった。

糠漬けのきゅうりは、自分が作った割にはひどくおいしかった。
しかし、それを食べる人間は私と息子しかいない。
夫は喜んでくれそうだったが、病院に持っていくわけにもいかない。
きゅうりに懲りて、私は八百屋の側は歩かないようにしていたが、それでもときどき買う羽目になった。
あの時、買わされた重いきゅうりがあったからこそ、我が家に帰り着くことができた。
そう思うと、売れ残りの安い野菜を押し付けられたことはたしかだったが、ありがたく思った。
ふと、糠漬けの漬物を飲み屋で売ったらどうだろうかと私は考えた。
酒のつまみにならないだろうか。
翌日、病院を早めに出て、まだ仕込み中の店を私は訪問した。
想像していた通り、断られるというよりは追い払われた。
せめて1週間頑張ってみようと、私は商店街のあちこちの店を訪ねてみた。
試食用の小さな保存容器を差し出してみせると、買ってくれる店が幸運にもあった。
「スーパーで買ってくることもあるんだけど、けっこう高いんだよね。
その割にはあんまりおいしくない。
でも、あんたのはおいしいよ」
私と年が変わらなそうに見えた女性は、試食用のきゅうりをばりばりと食べた。
「けったいな人だね、あんた。
漬物もって売り歩くなんて、初めて見たよ」
「家にまだありますが、もっといりますか」
「今日、お客さんに出して様子見だね。
で、いくら?」
店のドアを開けることは平気だった私だが、値を付けることは不得意だった。
500円だろうか、どうしようか迷っていると、相手が笑った。
「スーパーで、値段、見ておいでよ。
今回は600円でいいよね」
「スナック真知子」は私の大切な客になり、夫が退院するまでずいぶんと糠漬けを買ってくれた。
きゅうり、みょうが、ナス、大根と、私はスナックの客を想像しながら糠漬けを作ったものだ。
あの女性が真知子という名前なのか、最後までわからなかった。
ただ、最初のお客さんとして、私にとって真知子という名前は大切だった。
孫の名前をつけるのに、もし相談されたら、私は真知子を挙げたに違いない。

手首まで糠床に入れ、そっと丁寧にかき回し、野菜を漬け込むのは気持ちのよい作業だった。
糠漬けが私を変えたというよりは、野菜だけでなく、私も糠漬けになっていったのかもしれない。
夫の病気のことを、ひとりくよくよ悩む時間が少なくなった。
定期的に漬物を作り、おいしい時期を見極めて店へ持っていくという流れができたおかげだ。
味見で、ぼりぼりときゅうりをかじってみる。
うまく漬かっていると、自然に笑顔がでた。
驚いたのは、息子が糠漬けを好んだことだ。
「どうしてこれまで作らなかったんだよ」
サラダは好まない息子だったが、糠漬けはよく食べてくれた。
漬かりすぎた糠漬けを刻んでチャーハンにもしたが、それも好評だった。
糠床を静かにかき回す時間に、私は半年近い入院生活をどう乗り越えるか、いつも考えた。
冷たい糠床は、私の気持ちを鎮めてくれる。
手を洗った後、出費はどれだけになるのかを計算した。
たしかに一時的には出費も大きいが、保険も入っていたこともあり、どうにか大丈夫だと結論づけた。
病院で夫を見舞い、着替えを持ち帰るのが日課だったが、病院への往復は、私の仕事の場となった。
「毎日すまない」と言ってくれる夫には、糠漬けのことは口にしなかった。
そのかわり、「どういたしまして」と心から返事ができた。
ようやく夫が退院し、私は病院に行く機会も商店街を通るきっかけもなくなった。
私は「スナック真知子」にお礼に行った。
仕込みの時間だったが、最初の時同様、彼女は嫌な顔もせず迎えてくれた。
私は糠漬けだけでなく、菓子折りを彼女に渡した。
「もう作らないの?
おいしかったし、評判よかったのに」
彼女は残念そうに言った。
「こっちに来ることがないんです。
しばらくは、あの人がうちにいますしね。
私が糠漬け作って売っていたなんて知らないんですよ」
彼女は笑った。
「たしかにね。女房が悪いことをしてるかもしれないと疑うだんなはいるかもしれないけれど、
まさか漬物売っていたなんてね。
変な女房だよね」

糠漬けで稼いだ額は少なかったが、私は嬉しかった。
夫が家族のために精一杯働いてくれていたことを、改めて感じた。
貯蓄用の口座に入金しようとしたが、ふと考えが変わった。
散財しようと思ったのではもちろんない。
夫とは違うやり方を、自分で見つけてみたいと思ったのだ。
家族の貯金では、そんな冒険はできない。
自分で稼いで、その上で家族に喜ばれる運用方法を探してみたくなったのだ。
目標を100万円、まずは10万円をめざそうと決意した。
「スナック真知子」を頼るつもりはなかった。
10万円を稼ぐのに、わざわざ遠いところまで電車代をかける必要はない。
自分に何ができるだろうと、私は糠床に触れながら毎日考えた。
退院したばかりの夫の体調はまだ不安定だ。
夫が十分に回復することが、一番大切だった。
あの当時は、まだ希望があった。
夫はその後も手術を受けたが、入院し、休養すれば回復していた。
だからこそ、私も自分で冒険しようと思えたに違いない。

目標額に届くまでには、ずいぶん時間がかかった。
最初の仕事は、マンションの清掃だった。
3時過ぎに仕事が終わるのが、魅力だった。
まだ本調子ではない夫のために、せめて食事や弁当に気を遣いたかったからだ。
仕事場のマンションはファミリータイプで、私は久しぶりに幼い子どもや母親たちと顔を合わせるようになった。
息子は、家ではろくに話もしない。
高校生になったらそんなものだろうと思っていたから、私はあまり気にしていなかった。
あの年齢の子どもにとって、母親は洗濯をし、食事を用意する役割くらいしかなくなっていくものだ。
そのせいか、マンションの廊下を掃除していると話しかけてくる小さな子どもたちが、私には新鮮だった。
若いお母さんの中には、挨拶してくれる人もいた。
なんだか気落ちしているようなお母さんのときは、こちらもいつもより丁寧に挨拶した。
少し経験をした人間からみれば、そんなに困ることはないと思ってしまう。
しかし、誰だって一度も経験したことのないことに向かい合うときは、辛いものだ。
実際、私だって夫が入院した時は慌てた。
自分が入院などしたことがないから、なおさらだった。
そう思うと、若いお母さんにもいろいろ事情があるのだろうと思ったのだ。

マンションの清掃に関わっていると、建物の構造や使い勝手に興味が湧いてきた。
これまで一度もマンションに住んだことがなかったせいかもしれない。
そのうちに、管理人の手伝いも始めたおかげで、さまざまなことを覚えた。
数年後、清掃も仕事の一部である日勤の管理人になった。
ビルの清掃も仕事に加えたのは、夫が自宅で静養を始めたからだ。
夫は次第に体調を崩し、途中から仕事をやめざるをえなくなった。
私の稼ぎが役立っているのがうれしかった。
息子は就職していたから、時々は私の目標とする貯蓄にも回す余裕もあった。
夫の最初の入院の時、心構えができたおかげだった。
ビルの清掃はマンションとは違う点も多く、改めて勉強になった。
会社の始業前に作業を終了しなくてはならないため、朝が早いだけでなく、仕事の手順も臨機応変さが必要とされる。
仕事に入る前に、早朝ミーティングがあるかどうか、確認する癖も付いた。
ミーティングが行なわれる会議室を、最初に掃除しておかなくてはならない。
同じ失敗を繰り返すと、当然のことだが清掃会社に苦情が来る。
清掃リーダーになると、仕事を終えて帰宅する前に上司に報告書を持っていく仕事も任された。
洗剤や作業道具の不足や追加など、意見を求められることもあった。
面倒だと愚痴をこぼす同僚は多かったから、私はリーダーになる前から本部に報告書等の書類を持っていく係りを買って出ていた。
時間外の仕事とは思えず、本部に顔を出すことも私には面白かったからだ。
本部がある、それまでに一度も来たことのない街を歩いていると、「スナック真知子」があった商店街のことが頭に浮かんだ。
夜の街を、それまでは家にいるような時間に毎日歩いたことを思い出した。
「スナック真知子」に糠漬けを届けた後、また病院に戻り、しばらく夫と話して帰路につく。
最初は不安で、どきどきしながら長い商店街を抜けて駅まで向かっていた。
慣れてくると、商店街を歩くのが楽しみになった。
見知らぬ街を歩き回るのが、自分には心地よいのかもしれないとふと思った。

そのうち、私は古いマンションのワンルームを買いたいと思うようになった。
自分が不動産を買おうと計画すると、いやがおうでも知識が必要になるはずだ。
実践と勉強を一緒にやってしまおうと考えた。
ほとんどローンなしの物件にすれば、危なくはない。
糠漬けを売った時に考えていた冒険は、これだと思った。
最初に買ったワンルームには、わざとそこの清掃の仕事を見つけて週に3日は通った。
自分の部屋があると思うと、仕事とは思えないほど楽しかった。
朝、通勤に急ぐ若い人たちが、エレベーターを降り、通り過ぎていく横で作業をする。
この中に私名義の一室を借りている人がいるのだと思った。
少しずつ買い足していこうと、私は考えた。
管理人や清掃に励んでいたからこそ、私は夫が病んでいく状態に耐えられたのかもしれない。
家に帰ると、私は夫にマンションの若い人たちの話をした。
子育てで泣きそうな母親の話もした。
自分の病気とまったく関係のないそんな話を、夫はうんうんと頷きながら聞いていた。
「おまえ、身体は大丈夫か?」
病身の夫が私をいたわってくれた。
「ごめんね、あなたの分まであたしが元気をもらっているみたいなのよ」
たしかに、清掃の仕事は重労働ではないにしろ、大変だ。
自分が身も心も頑丈であることを、私は実感した。
怠け者と言われて注意される同僚の中には、実際、体力のない人もいたのだから。

不思議なことに、息子の子どもでもなく、養女として家族になった桃子が私の話を熱心に聞きたがった。
「おばあちゃんってすごいよね」
桃子が興味を持たなかったら、私だって話すはずもない。
マンションとビルでは、清掃方法のどこが違うかなどと、ついつい私も熱が入った。
そうはいうものの、桃子に私が伝授した我が家の掃除のやり方を、彼女が守ったかというとそうではない。
しかし、私が年寄りだからそう思うだけで、あの年齢にしては桃子はきれい好きで、こまめに体を動かすような気がする。
あまりほめると調子に乗るから、口にはしないが。
桃子を見ていると、最初に清掃の仕事についたファミリータイプのマンションを思い出す。
不安そうな表情のお母さん、子どもを叱っているお母さん、さまざまだった。
まとわりついている子どもたちも同様で、中年の私にはどの子もかわいかった。
いつか、自分の息子も結婚して、こんな孫でもできるかもしれないと想像した。
その願いがかなうどころか、息子は結婚早々に亡くなってしまった。
世の中、うまくはいかない。
私は改めて感じた。
しかし、思いがけない縁があり、私をおばあちゃんと呼んでくれる桃子がいる。
今も不思議でならない。