Novel(百物語)
02ten

桃子

親子三代 その1 孫の桃子


桃子と呼んでくれる人は、名付けてくれた母親以外ほとんどいなかった。
いつもは「あんた」と呼ぶ祖母が、時々口にしてくれた。
桃子自身も自分の名前がどこかしっくりしない。
桃子に、その名前から漂う雰囲気が欠けているのかもしれない。
桃太郎と呼ばれ、桃が抜けて太郎、そのうち太郎の枠組みが崩れ、ターになった。
保育園の時からかけっこでトップの定位置を守る桃子は、運動会では出番がやたらに多かった。
クラス対抗リレー、紅白リレー、地域対抗リレーと桃子の力走の度に、周囲から力強い「ターッ」という掛け声が起こる。
「ターッ、がんばれ」「あと少し、ターッ」、あるいは、ただ金切り声のみの「ターッ」。
あの声援が桃子への応援だと、母親はわかっていたのだろうか。
「桃子の走りっぷりは気持ちがいいわ。本当にすごいよね。さあ、ごはんごはん」
運動会午前の部が終わると、弁当を広げ、母親は感心しきったように言う。
足の悪い祖母は自分のための準備は決しておろそかにはせず、キャンプ用の折りたたみ椅子を持参している。
「まったくだね」と頷いてはいるものの、母親の言葉には素っ気ない。
すでに空腹らしい祖母は、桃子よりも先におむすびに手を伸ばした。
桃子はそんな祖母が好きだった。
右手におむすび、左手にからあげをつかみ、祖母に負けず、桃子もむしゃむしゃ食べた。
桃子が養女であることを、幼いときから母親は伝えていた。
運動神経の悪いおかあさんの実の子だったら、あたしが速く走れるとはとうてい思えない。
そうすると、おかあさんを楽しませることもできない。
もし、おかあさんの足が速かったとしたら、おかあさんはこのくらい速く走れなくてどうすると思うに違いない。
自分がそうだったら、一番でゴールなんて当たり前だ。
そうすると、こんなにも褒めてもらえることもない。
どちらにしても、自分はラッキーだと桃子は思った。
満腹になるまで食べている桃子を、食事の終わった友達が誘いに来る。
「ちょっと待ってて」
友達を待たせても、桃子は自分の食事を優先する。
これもまた、母親と違うところだと、とっくに食事を終えた祖母は見ている。
桃子が家に来なかったら、小学校の校庭にレジャーシートを敷いておむすびを食べる経験など、したくてもできなかった。
当然のことだが、桃子は早くに亡くなった息子にもその妻に全く似ていない。
しかし、10年も一緒に暮らしていれば、生活の癖というようなものは似てくる。
血のつながらない3人が似ているようでもあり、まったく違ってもいることが祖母には面白い。
運動会午後の部も、母親と祖母はプログラムを片手に桃子の姿を追った。
運動会の最後を飾る紅白リレーは見ごたえのある展開で、2人とも声をからして応援した。
3番手から桃子が追い上げ、とうとう1位をもぎ取った時は、校庭中が「ターッ」の大合唱だった。

走り同様、勉強も一応できるほうだったが、桃子はどちらにもあまり興味をもっていなかった。
「あたしは早く働いて稼ぎたいな」と言う。
中学3年生のときも同じことを口にしたが、進路相談で担任の教師と母親から説得された。
高校生活は楽しかったから、大人の言うことを聞くのも大切だと桃子は思った。
しかし、勉強はもう十分だと感じた。
「大学に通らない成績でもないのに。学費くらいは出せるのよ」と母親が言っても、
「いいよ、いいよ」とさっさと就職先を決めてしまった。
「金融機関だと、働きながらお金の勉強もできるから便利だよね」と就職先は金融機関だけにしぼったらしい。
最後は証券会社に決めてきた。
「お給料が高いのは、やっぱりいいよね」と旺盛な食欲を見せながら桃子が口にした言葉が、母親は気になったらしい。
「あの子、やっぱり養女だっていうことを気にしているのかしら。
あたしが欲しくてきてもらったんだから、気にすることないのに。
これ以上親に負担をかけるのが嫌なのかな」
母親は寂しそうな表情で姑に相談した。
「そんなことあるもんかね。
あんたは18年も桃子を育てていて、わかっていないもんだね。
あの子は生きていく力があるんだよ。
心配することなんかない。
大学に行ったほうがいいとなったら、周りに迷惑かけてでもさっさと行くよ。
桃子は運のいい子なんだよ。
この世に生まれてこられるかどうかってときは、全く見ず知らずのあんたが助けに出てくるだろ。
自分の親は誰なんだろうと、もちろん気にした時もあっただろうけれど、はしかが軽かったように
深刻な悩みも上手に切り抜けていける力があるんだよ。
あの子は大丈夫だから」
姑にそう言われ、母親はなんとなく納得した。
その後、姑は桃子に言った。
「おかあさんは桃子のことだけじゃないけど、本当に優しく気を配る人だよね。
さすが、あたしの息子が結婚したいと惚れ込んだ人だよ。
でも、時々とんでもなく大胆なことをするから、わからないもんだ。
桃子やあたしのほうが、ずっとおしとやかなんだけど、残念ながら世の中はそう思わないものさ」

桃子が勤めて、5年目を迎えた。
桃子と同じ年の大卒の新入社員がようやく入ってきた。
最初は先輩と思い込み、丁寧な言葉を桃子にかけてきた新入社員も、飲み会で同年齢とわかると口調も変わった。
「なめられちゃだめ」と注意する先輩もいるが、桃子はあまり気にならない。
同期と同年齢と、二つの集団から仲間と見られて得なのではと思っている。
それよりも、上司から毎年受けさせられる資格試験のほうがうんざりする。
若くして入社しているから、新入社員より結果的には勉強させられていることになる。
「これだけ成績がいいんだから、がんばろう」と上司は言うのだが、高卒でも大丈夫なんだと応援されているようで面倒だった。
営業でもなく、内勤の事務職なのだから必要ないのではと桃子は思っているのだが、どうも期待されているようだ。
金融機関に興味を持ったのも、金融の仕組みを少しでも知っておけば便利だと思っただけだ。
4年も勤めていれば、関連の知識を覚えてしまうのは当然だと桃子は思っている。
だから、上司が勘違いするのかもしれない。
資格試験はそろそろさぼったほうがいいかもしれない、と桃子は考え始めていた。

一方で、支店に配属された新入社員の生活が桃子の関心事だった。
恋愛感情では全くない。
彼らと話をすればするほど、何か新しく面白そうなことができそうな予感がする。
桃子も会社に慣れ、業務と試験だけでは刺激不足になっていたのだろう。
本社採用の新入社員は支店採用の桃子と違い、会社近くの借り上げマンションに住んでいる。
一見、恵まれているように見えるが、実態を知っている桃子は少しもうらやましいとは思えない。
彼らは7時には出社し、9時の始業からすぐに外回りの営業だ。
貴重な2時間で、国内外の金融商品の動きを見極め、営業前の準備をする。
1日中動き回り、夕方、ようやく会社に戻ってくる。
それからがもうひと仕事だ。
その日の連絡や書類作成のために、長時間デスクに向かっている。
帰宅した彼らに食事を作る気力などあるわけもなく、外食で済ませたり、コンビニで買っているようだった。
週末は洗濯等に充てる者もいたが、得意先から連絡があると、休日は消える。
新入社員の飲み会に、桃子はよく誘われた。
愚痴をこぼすものもいたが、やはり若者のせいか暗い飲み会にもならず、いつも楽しかった。
聞き役の桃子も、彼らの日常を同情する気持ちは起こらない。
ただ、せっかく同僚が増えたのに、この状態が続けば無理がきてやめることを考えそうな気がした。
手助けがあればうまくいくにちがいないと、ひまな桃子はひとりでプランを立て始めていた。

部屋が汚すぎて、せっかくの休みを片づけに回さなくてはいけないと、誰かが口にしたとき、
桃子はさりげなく提案した。
「ねえ、家に帰ったら夕食があって、部屋も片付いていたら、気持ちよくない?
ちょうど四人いるから、月曜日から木曜日、持ち回りで誰かの家で食べる。
食事はあたしが会社帰りに作っておくから。
洗い物や片づけは、朝、出社前に立ち寄ってやっておくから大丈夫。
もちろん、自分の部屋に持ち帰って食べてもいいけど、その時の片づけは自分だよ。
台所を使った家は掃除と洗濯もついでにすませるから、きれいになるという仕組み。
どう?」
「本当かよ」
「おまえ、俺たちの誰かに気があるんじゃない?」
彼らは桃子をからかった。
からかっても大丈夫な雰囲気があった。
誰も桃子に恋愛の感情がなかったからだ。
「いくらかかるのかな」
ひとりが訊いた。
「食事代はひとり1回500円、1週間に1回の掃除・洗濯代は1000円」
桃子が言うと、
「お願いします」
とすかさずみんなが頭を下げた。
「食事がいらないときは、退社するまでにあたしに連絡すればOK。
結婚した時、そういう習慣がついていれば便利じゃない?」
考えていたプランだから桃子には手あかがつきはじめていたが、彼らにとっては突然の提案だった。
それでも、ただ寝るだけに帰っているような家がきれいになって楽しくなりそうな予感を感じたに違いない。
桃子のプランを詳しく聞きたがり、飲み会は文化祭の出しものを計画している教室のような雰囲気になった。
「なんかいいことありそうだな」と、先ほどまで仕事の愚痴をこぼしていたとは思えないような笑顔で言うものもいた。
「2,3日のうちに概要を送るから。
変更部分もでてくるだろうから、動き出したらみんなの意見をきくからね」
桃子は仕事の打ち合わせでもしているかのように伝えた。
さすがに4年も先輩のせいか、新入社員はしおらしくうなずく。
会社でも桃太郎と呼ばれ始めていたが、家来ができたようにも見えた。

意外にも桃子が料理がうまいことに、彼らは驚いた。
「当たり前よ、あんたたちより早くから社会人なんだから」
桃子は威張ってみせたが、実は少々不安になり、母親と祖母に手順を確認したり、味をみてもらいに実家に数回帰ったことだけは黙っていた。
「桃子、なにかたくらんでいないよね」
母親は笑いながらも気にしていたが、それ以上は聞いてはこなかった。
桃子が久しぶりに顔を見せたのが、母親は嬉しかった。
就職すると、桃子は実家を出てアパートを借り、なかなか帰ってこない。
ひとり暮らしとはどういうものか、桃子は興味があった。
4年も経てば、それなりに家事もこなしていたからこそ、新入社員相手に家事能力を試してみたくなった。
彼らは実験台そのものだったが桃子の仕事ぶりは丁寧で、4人からは感謝されていた。
「だらだら続けると、あんたたちの能力を落とすから、1ヶ月更新ね。
自分でできることまで奪ってしまったら、何にもならない」
桃子はそういうのだが、更新料を払うからとお願いする社員までいた。
「先輩にこんないいシステム教えたらだめ?」
「だめです。仕事の質を落とすわけにはいかないから」
そういうと、自分たちだけの特権のように思うのか、彼らは嬉しそうな顔をする。
彼らのおかげで、桃子も少しばかりたるみ始めた勤めに刺激ができた。

勤務時間の前後に仕事が増えたが、桃子は大変だと感じなかった。
母親と祖母が働き者だったおかげで、桃子も働くことが苦にならない。
まめに働き、適度に疲れて寝てしまえばむやみに悩まないものだ。
祖母を見ていれば、いつのまにか桃子もそう思うようになった。
おかげで、上司や先輩の行動ひとつひとつに対して、周囲の人よりは悩まない。
「課長、そんな言い方してた?」
上司の悪口を言い続ける後輩に桃子が素直に尋ねると、相手はうんざりしたような顔をする。
「先輩っていいですよね」
「うん、そう思う。あたしは鈍感だから」
相手が言いたかった言葉を口にすると、後輩はあわてて否定する。
うちの家族は血がつながっていないから、分からないはずだと思って付き合うんだよ。
桃子は心の中でそうつぶやく。
小学生の高学年になったころ、祖母が母親と桃子にこんなことを言った。
「おかあさんも桃ちゃんも、相手に気を配りすぎることはしないことね。
特におかあさん。
桃子は本当の子じゃないからって思いすぎ。
悪いときは悪いんだから、怒ればいいんだよ。
感情的になってもしようがない。
ほとけさまじゃないんだから。
桃ちゃんも、ここは学校じゃないから、好きにやんなさい。
あんたがやりたくても、こっちが困ったらだめって言うから。
あたしたち3人はなるべく共通語を使わなくちゃいけない」
「共通語ってなに?」
「みんなが分かる言葉さ。
桃ちゃんもお母さんもおばあちゃんも別々の家族から、縁があってここで生活しているでしょ。
だから、3人が分かる言葉を使わないといけないんだよ。
桃ちゃんがお母さんが分かるわけないって言ったらその通りなんだ。
お母さんが、桃ちゃんが分かるわけないって言ったら、そうだよね、桃ちゃんは分かるはずもない。
だってお母さんは分かるはずがないって言っているんだから。
そんな、自分しかわからない言葉は使っちゃだめ。
この3人は、喧嘩してもいいから、相手がわかる言葉で言わないといけないんだよ。
それが共通語」
おばあちゃんの少々ややこしい言い方を、あの当時の桃子が理解したわけではなかった。
ただ、幼い桃子もそれなりに努力してきたとは思う。
相手に分かってくれと望む前に、こちらが相手に分かるように話さなくてはならないと祖母は要求した。

「あんた、ひとり暮らししている割には、今一つだねえ」
辛口の評価を出しながら、祖母はよく食べている。
母親はおいしいと笑顔だが、料理をほめているのか、桃子の気配りを喜んでいるのか、わからない。
祖母の誕生日に、桃子は実家で手料理をふるまった。
一石二鳥とはこのことで、同僚に出そうかと考えている食事の予行演習だ。
老人向けと同年齢の同僚では、やっぱり好みが違うかなと桃子は観察している。
「料理に興味が出たなんて、桃子にいい人でもできたのかな」
祖母は嬉しそうだ。
「残念でした。
男を追っかけるより、いつ死ぬかわからないおばあちゃんの様子を見に来るほうが優先順位は高いからね」
「まあ、桃子の失礼なこと」
母親が目を吊り上げ、箸をふりあげる。
「ほら、おかあさん、あぶないよ。
それにそういうことをすると、前はひどく怒られたよ」
「あんたの子じゃないってよく分かるよ」
笑いながら祖母は言う。
以前、共通語などと祖母が口にしたのは、いつお迎えが来てもいいようにと、残された二人への遺言だったのかもしれない。
ところが、祖母は老いてはいるものの、まだいくらでも2人に説教をしそうな余力がある。
息子の分までしっかり生きているよねえ、と写真でしか知らないその人のことを桃子は思う。
桃子が高校生のころ、実の両親のことを知りたいかと祖母が訊ねたことがあった。
「おばあちゃん、あたしの両親はまだ若いから大丈夫。
会いたいと思ったら、まだまだ時間は作れるよ。
心配しなくてもいいよ。
人生残り僅かなおばあちゃんのほうが大事だから」
「まあ、桃子ときたら。なんであたしに似ているのかねえ」
こんなとき、桃子はささやかな幸せを感じるのだった。