Novel(百物語)
02ten

おしどり

私の両親はとても仲がよかったらしい。
こんな言い方しかできないのは、父と私がリレーの選手のバトン受け渡しのように、
この世から去り、生まれてきたからだ。
つまり、両親の仲がいいところを見るどころか、父親の顔も知らないのだ。
父は売れない小説を書いて人生を送った。
就職に有利でない文学部ではあったとしても、大学まで出たのだから就職の機会はあったはずだ。
しかし、父はただただ小説を書き続け、三十半ばで亡くなった。

父と母は学生時代からの知り合いだった。
同人誌に載った父の小説を、母は知り合いに勧めるだけでなく、出版社にも売り込みに行った。
機会があれば、どんなところでも足を延ばし、父の小説を紹介した。
しかし、母の努力にもかかわらず、父の小説が世の中に出ることはなかった。
賞の候補になったと聞いたことがあるが、定かではない。
賞を取れるかどうかは運もあるだろうが、やはり候補作どまりの小説だったのではなかろうか。
「お父さんの小説、大したことなかったんじゃない?」
母に訊ねたことがある。
生意気盛りの中学生のころだったろうか。
怒りの言葉を浴びせられるかもしれないと思ったが、母の返事にこちらが驚いた。
「二流は二流の味があるものよ。かんちゃんの小説、私は好きなんだもの」
私は見たこともない父をお父さんと呼ぶが、母がこの子のお父さんと呼ぶのは他人がいるときだけだ。
かんちゃんと呼ぶ父を母は大好きで、父が書いた小説を読んでもらうことだけを考えていた。
母は父の小説の営業マンだったのだと、この頃私は考えるようになった。
そう考えると、父の小説が一流でなくてもかまわないことが文学に全く興味のない私にも理解できる。
会社の製品がトップクラスのものでなかろうが、営業マンは自社製品の売れる場所を開拓していくものだ。
車だって、最高級車から大衆車までさまざまだ。
母はかんちゃんが大好きだったから、彼の小説を市場に送り込もうと頑張ったのだろう。

母の実家は資産家だった。
夫を亡くし、子どもは生まれたばかりという状況を見かねて、祖父母は母に再婚を勧めた。
孫は祖父母が育てるから心配しなくてもいいと言ったらしい。
生まれてきたばかりの私に決定権があったら、どんなによかったろう。
高校まで母と暮らしたのは、祖母が不用意なひとことを口にしたからだった。
母は祖父母に逆らうそぶりも見せなかったのに、私は高校卒業まで母と暮らすことになった。
祖父母のもとで経済的に余裕のある子ども時代を私が過ごせなかったのは、祖母が不用意なひとことを口にしたからだった。
「あんな男と付き合って、人生を棒に振って。文学は魔物なんだから」
かんちゃんに死に別れたばかりの母は、その言葉に異常に反応した。
娘がかわいいからこその祖母の言葉だったにちがいない。
私はそう思う。
それまでは、祖父母に従うように見えた母が変化した。
かんちゃんの小説を馬鹿にしたと母は怒り、私を連れて実家から出て行った。
その話を聞くたびに、私は今からでも遅くない、祖父母に会いに行ってみようかと考えたものだ。
その後、祖父母と会う機会は叶った。
しかし、残念ながら祖父母に私を育てる気力は既になかった。
法事で、古いながらも大きな祖父母の家の玄関に入るたびに、私は自分がここで育ったとしたらと
想像をたくましくしたものだ。
ただ、私は平凡な子どもだった。
想像力はそのあたりまでで、いつもの自分の生活に普通に戻っていくことができた。

私が中学生になると、両親の大学時代の友人が訪ねてくるようになった。
定年までにはまだ時間があったが、両親の世代は同窓会を楽しむ年齢になっていた。
父と母は同級生だったから、両方の友人は多かった。
我が家にやってきて、仏壇に向かって手を合わせては、母と話をして帰る。
狭いアパートだから、客が来ると私もその場で話を聞くことになった。
おかげで父のことをずいぶん知るようになった。
客たちは母に食事の準備をさせないようにと気を遣い、鮓を買ってきたり、ピザをとってくれた。
「食べ盛りだもの、何が好き?」と聞いてくれるから、図々しくも私はアイスクリームまでお願いした。
我が家での同窓会は大歓迎だった。
次はいつかなと楽しみだった。
母が同窓会に出ないのは理由があった。
社員寮の管理人をしているせいで、休みを定例の同窓会の日取りにあわせることができないからだった。
母は社員寮だけでなく、会社が所有する小さなビルの管理人も請け負っていた。
私が小学生のころまでは、住み込みで社員寮のまかないもやっていた。

私にとって、社員寮は楽しい思い出が多い。
与えられた部屋は一間で狭かったが、厨房や浴室は異様に広い。
家の中に、遊び場があんなにいっぱいある子ども時代を過ごせた人は少ないに違いない。
もちろん、母は私に厳しかった。
勝手に食堂や厨房に出入りすることは許されなかったが、手伝うなら違ってくる。
トイレのモップを外に干したり、食堂のゴミ箱を片づけするのなら往来自由だ。
やっていいことと悪いことを覚えさえすればいい。
20人近くいた社員の人たちは私の先生だった。
ほめられたり、怒られたり注意されたりしながら、私は少しずつ人との付き合いを覚えていった。
私はどの人も嫌いではなかった。
子どもが嫌いだと公言していた人が、ある日を境に私に優しくなったことがある。
仕事で落ち込んでいた時、何も知らない私が「おかえりなさい」と声をかけたのが心に沁みたというのだ。
「俺、案外家庭向きなのかもしれない」と言い出し、そのうちに結婚して寮を出ていった。
ルールを破らない程度に少しずつ、社員寮での私の活動領域は広くなっていった。
食堂のテーブルで卓球もやった。
逆立ちの練習も、なわとびも食堂でしていたから、私にとって食堂は体育館のようなものだった。
勉強がわからなくなると、誰かが教えてくれた。
おかげで、塾に行かずにすんだ。
「おかえりなさい」
「ただいま。あー、疲れた」
そんな会話を私は20人の社員と毎日交わしていた。
心配性の人、最初のうちだけはいばっている人、のんきな人、几帳面な人、さまざまだった。
私が中学に入っても社員寮で生活していたら、そのうちには、人生相談所まで開いていたかもしれない。
「近ごろの学校っていじめが大変なんだろう?」と聞いてくる人に限って会社でいじめられている。
「大変なんですよ」と返してあげる時もあるし、
私なりの対処法を教えると、面白そうに聞いてくる人もいる。
社員寮は楽しかったが、もともと適応力のある私はあそこにいたら、大の大人を子分にしかねなかった。
母はそういう私の性格を見通していたのかもしれない。

アパートにやってきて、小さな同窓会を開いていた両親の同級生も、私にとっては社員寮の人たちと同じだった。
母と二人の生活を外から楽しませてくれる人たちだった。
驚いたのは、同級生とのおしゃべりで母が相変わらず、父の小説を営業していることを知った時だった。
「かんちゃんって幸せ者だよね、綾乃にここまで尽くしてもらって」
溜息をつくように、同級生のひとりが言う。
「あたしなんて、30年も一緒に暮らしているのに、そんな気持ちになったことないよ」
そして、私をふり返って言う。
「おかあさんて素敵よね」
私は同意しない。
「素敵なんですかねえ。よくわかりませんけど」
いまだに父の小説を売り込もうとしている母をどう理解してよいか、私はよくわからない。
父が果たすことのできなかった思いを遂げたい執念なのだろうか、あるいは純粋な愛情なのだろうか。
どちらにしても、私は両親の文学愛からはじかれているように思われた。
辛いということはなく、私は部活のバレーボールに専念するほうが向いていた。
父の原稿用紙は段ボール箱に何箱も入っている。
原稿用紙がびっしりと入っている段ボール箱はかなり重く、引っ越しの時、毎回面倒だった。
その上、押入れの大部分を占拠するから、私にとって嬉しいものではなかった。
「ワードで取っておけば?コピーだっていつでもできるし、便利だよ。
万が一、原稿がなくなっても心配ないから」
この段ボールをどうにかしてほしいと思い、私が口にすると、そうかと母はさっそく行動に移した。
安いパソコンを買ってきて、教科書と首っ引きでいつのまにかワードを使っている。
かんちゃんファイルをいくつも作成し、USBメモリーも準備してあるのに、押入れの段ボール箱が消えなかったのは私のミスだった。
ただし、新しい道具を手に入れた母は、なおいっそうかんちゃん営業に熱を入れた。
よくもまあ、アイデアが湧くものだと私は感心した。
広告に小説を使うことを提案したのも母だった。
写真を貼って、その下にかんちゃんの小説の一場面を入れてみることもした。
残念ながら父の小説は使われなかったが、母の企画は採用されたとみえ、有名な小説家の一文が載る広告を
私は新聞で目にするようになった。
「朗読はどうかしらね」
家に帰ると、母が大きな声で父の小説を読んでいる。
「お父さんの作品は、聞くより黙読するほうがあっているみたい」
うるさいと言う代わりに私は母に提案した。

高校に入ると、私はアルバイトを始めた。
大学に行きたかったから、そのための費用を少しでも貯めておこうと考えたのだ。
母の頑張りのおかげで、つましく生活さえすれば、私が生活費を補う必要はなかった。
高校生ができるアルバイトはたくさんはなかったが、私は仕事をすることが好きだった。
母とふたりでの生活は、家の広さも毎日のリズムも私には単調すぎる。
学校生活だけでは満足できなかった。
父親はそういうとき、小説を書いたのだろうが、私は仕事をした。
ついでに報酬ももらえるのだから、こちらのほうが割がいい。
学校が、成績が上がると報奨金がもらえる仕組みになっていたとしたら、私はトップクラスにいたかもしれない。
しかし、学校とは別の楽しみがあるアルバイトだからこそ、私は二つの世界を泳いでいたのだろう。
退屈を紛らわすために仕事をしているのだから、嫌な時やきついことも当然だとおもっていた。
狩りに出かけ、怪我をすることもあるにちがいない。
それに似ていると思っていた。
コンビニやファーストフードの店でも働いたし、保育園の子どもを迎えに行く仕事も請け負った。
ティッシュ配りの仕事の際は、どうやったら短時間に配り終えるかを真剣に考えた。
土産物店で外国人の観光客への売り上げを稼いだ時は、店も喜んだが私も楽しかった。
英語強いねと言われたが、実際は、中国語や韓国語のフレーズ集をカードに作り、それを見せただけだ。
もうひとつ、私の強みはとっさのひとことに強いことだった。
そのおかげで、社員寮に住んでいるとき、どれだけ不利な状況を逆転したかわからない。

母の実家を継いだのは、私にとって叔父にあたる母の弟だった。
ある日、私宛に叔父さんから手紙が届いた。
孫の私に、少しだけ財産を残してやりたいと祖父母が言うらしい。
大学にかかる費用の一部を負担してやりたい。
ただ、文学部志望なら、残念だが渡すわけにはいかないとのことだった。
祖父母に私は感謝した。
心配しなくても、私は文学部に全く興味がない。
文系か理系かは迷っていたが、十分にもらえる資格はあった。
喜んで私は叔父に手紙を書いた。
母には隠すことなく伝えた。
「よかったわね。ありがたいわねえ」
母はさらっとそういう。
「このお金で自費出版でもしたくないの?」
私がそう聞くと、母はなるほどという顔をした。
「それもいいわね。お父さんの本を手に取ってみたくない?
あんたがいいなら、もらうけど」
「いや、それは困る。あげない」
「そうよね。それでいいんじゃない?」
その時、ふと思った。
家業を継いで頑張っている叔父さんと父の小説の営業を続けている母は似ている。
祖父母は父が残した小説を、文学とみなしているから見間違う。
小説を商品だと言ったら、怒る人もいるだろうが、精魂込めて焼いたパンも関わる人は同じ気持ちだ。
おいしい料理を味わった人と小説の読後感は似ているかもしれない。
これからも、母は父の小説を売り込んでいくのだろう。
自分の人生がつまらなかったなどとはひとつも思っていない。
人が振り返るほどの美人で、気立てもいい母は他にあったかもしれない人生のことなど少しも眼中にない。
かんちゃんとの生活に満足し、かんちゃんが残した小説を誰かに読んでもらいたいとだけ考えて生きている。
母のおかげで、私は人生というものは何かを選び何かを捨てることだと知った。
写真で見る限りでは、父もなかなかの男前なのに、娘の私が両親の良さを受け継がなかったのは不思議だ。
しかし、私には両親にないものを持っている。
文学に興味がないことが、私の一番の特質かもしれない。
本を読まない人生もある。
何より、祖父母は私に大学生活を手伝ってくれようとしている。
母の実家に私が住むことはなかったが、十分なプレゼントだった。
もう少し面白そうなアルバイトを探していこうと私は考えた。
時給よりも中身で選ぶ余裕ができたのはありがたい。
私の大学入試よりも先に、母の営業の成果は出始めてきた。
父の小説をそのまま使うわけではないが、脚本の一部に使ったり、ゲームに利用する話が生まれてきた。
母は小説を書いてはいない。
しかし、20年近く父の小説を読み込み、この世に送り出したいと思ってきた母が、
父の小説の外側にもうひとつのかんちゃんの小説を作っているように私には思える。
「ゲームになるんだ、へええ」
私は感心した。
換骨奪胎という言葉が浮かんだが、父の小説を一作だけ読んで、まったく理解しなかった私よりは
ゲーム会社の人間のほうが父と共感したのだろう。
「おかあさんの売り込みがうまかったんだと思うよ」
私は素直にそう言った。
「えへへ」
母は嬉しそうな顔をした。
「気を付けてよ。おかあさん、年取ってるけどけっこう美人だから」
「かんちゃんもそういってくれた」
まったく両親には呆れてしまう。
この人たちには、私の悩みなどわかるわけがない。
だから、人生を文学などに棒に振るんだよ。
私は心の中で悪態をつく。
そう言いながらも、ただ一筋の道を歩きとおしてきた両親を呆れながらも認めざるをえない。
おしどり作家という場合は、夫婦ともに作家の時しか使わないはずだ。
私の両親はなんと名付けたらいいのだろうか。
夫婦漫才というのに近いのだが、語彙が少ない私は考え付かない。