Novel(百物語)
02ten

親の職業

親がコックだという友達がいたら、うらやましいと思うものだろうか。
うらやましく思ってもいい家庭が、実際にはあるのかもしれない。
うちは違う。
僕の母は料理研究家と呼ばれている。
自宅で料理教室を開き、本も数冊出し、雑誌に連載も持っている。
たいていの友人は母親の職業を知ると、「いいよな」と言う。
「どこが?」と僕はいつも答える。
「あれは、仕事。当たり前の料理を作ってくれる親のほうがずっといいよ」
凝った料理を作るから嫌なんじゃない。
逆に言えば、そんな料理を食べてみたいものだ。
母親は、日々料理に興味が湧くらしく、いつも挑戦している。
その結果が、食卓に並ぶ。
わけのわからない料理を食べる子どもの身にもなってくれ。
オムレツだと思えば、カボチャの味がする。
ニラとキャベツと豚ひき肉がギョーザの定番だろうと言いたくなる。
麻婆豆腐が、どうしてこういう料理になるのだろう。
それでも、親が作ってくれる料理にケチをつけるのはいけないことだと思っていた。
僕の父は決して厳しいわけではない。
しかし、僕の気持ちが分かるのか、母親の料理をけなすのなら自分で作ってからにしたらどうか、
というような視線を僕に送ってくる。
毎日挑戦し続ける母は、悪く言えば能天気でうるさく、よく言えば明るく世話焼きだ。
父がこんな母をなぜ好きになったのか、幼いころ僕は不思議だった。
両親は水と油のように性格が違う。
一度そう言ったら、あっさりとかわされた。
「だから、おいしいドレッシングになったのよ。よくふったから」
ドレッシングは分離する。
しかし、両親はそうならなかった。

母の料理にうんざりした僕は、ストレスがたまると、自分で料理を作るようになった。
食事は、自分が満足するのが一番だ。
「さすが、先生のお子さんですね」と生徒さんから言われ、母は勘違いして喜んでいる。
僕は母に料理を習ったことなど、一度もないし、一緒に台所に立つこともない。
母親に文句を言うよりもずっと効果的な解決方法を見つけただけだ。
高校に合格した時、最初に母が気にしたことは僕の弁当箱だった。
「一緒に買いに行こうか」と誘われて、僕は丁寧に断った。
「家にあるタッパーでじゅうぶんです」
誰に似たのか、僕は母親に敬語を使う。
結果、以前はそうでもなかったのだが、父親にも敬語を使う羽目になった。
弟や妹はちがう。
「にいちゃん、変」と言われたり、「お兄ちゃんって案外いつまでも思春期よね」と馬鹿にされる。
呑気にうちが一番と思っているあいつらに何がわかる。
弁当を作るといっても、飯を炊き、ふりかけをかけるだけのこともある。
ピーマンをさっと炒めてちりめんじゃこと一緒に混ぜたものや、
ソーセージを炒めただけという程度だ。
もっと簡単なのは、アメリカ式と呼んでいるもの。
パンにピーナツバターを塗ったものとりんごだ。
あれは簡単でいい。
コンビニで買う手もあるが、小遣いが減るからなるべく避けている。
それでも、毎日作っていると、少しずつレパートリーは増えた。
家庭科の先生がどこから聞いてきたのか、僕の事例を使って授業を組み立てたこともあった。
いい迷惑だった。
ただ、先生が教えてくれたおかずはおいしかった。
ある程度、料理に慣れていたせいか、先生が早口で教えてくれるのもよく理解できた。
「さすがだね」と先生はほめてくれた。
親のことを言うかなと気にしていたが、先生は何も言わなかった。
自分のほうが気にしているんだと、少し恥ずかしかった。

息子が弁当を作ると言い出したとき、妻はさんざん愚痴をこぼした。
弁当を作るくらいさせてほしいとか、私は料理が好きなんだとか、あの年頃はしっかり栄養をとるべきだとか。
しかし、長男は聞く耳を持たなかったらしい。
矛先を変え、妻は私に訴えた。
「好きにさせてやればいいんじゃないか。
お手上げになったら、泣きついてくるかもしれないよ。
その時はにっこり笑って作ってやればいい」
そう言いながらも、私は長男が弁当作りを最後までやり通すような気がした。
おとなしそうに見えて、長男は頑固だ。
上手に親に甘えることは弟や妹のほうが格段に上だが、自分で歩んでいく強さを持っているのは長男だった。
長男が妻の料理に対して厳しいのは、私も知っている。
しかし、長男の批判がすべて当たっているわけではない。
自分の好きな料理の時は食が進んでいる。
認めたくないというよりは、当人は気づかないのかもしれない。
どんな立派な親であったとしても、子どもは親を批判したくなる。
それでじゅうぶんだと私は思っている。
批判をきっかけに育ってくれさえすれば、親としては本望だ。
妻は子どもに対して素直に怒り、笑い、感情をぶつけることができる。
私が妻と結婚したいと思った一番の理由は、彼女のその性格だった。
自己中心でもなく、相手を慮りながらも自分も無理な我慢をしない。
私が妻に出会ったのは、妻の両親が営んでいる食堂に通っていたからだ。
会社のすぐ近くだった。
おいしい料理だったこともたしかだが、居心地の良さは家族3人が醸し出す雰囲気から来ていたように思える。

妻の実家は、だるま食堂という名前だった。
どこにでもありそうでいて、逆に今は見かけることが少なくなった個人経営の定食屋だ。
私だけでなく、そこで昼食をとる社員は多かった。
「今日は社員食堂と言ってもおかしくないですよね」
周りを見回してそう言った後輩もいた。
まったく当たり前の定食か丼物しかない。
しかし、ハムカツも魚のフライも、どれもおいしかった。
主菜と一緒に白い皿に載っている大盛りの千切りキャベツやポテトサラダ、マカロニサラダも同じくらい気合が入っていた。
私の好物はだるま丼で、薄切りのかまぼこ、ほんの少しの豚肉、玉ねぎ、青菜の卵とじが飯の上にたっぷり載っている。
メニューの中でもさらに安く、それに具だくさんの味噌汁がつくから、金がないときは本当に助かった。
だるま食堂は午後の休憩が終わると、夕方から再びまっ白の暖簾がかかっている。
夕食をここで済ますこともあった。
昼間も夜もビールは置いてあったが、頼む客は少ない。
だるま食堂は食事が主の店で、男たちがいつもがつがつと食べて出ていく店だった。
おかずを肴にしてゆっくりビールを飲んでいるという光景は見たことがなかった。
食堂のテーブルには醤油やソースの他に、ゆかりというふりかけがガラス瓶に入れてある。
白いご飯に、干した赤シソを刻んだゆかりをかけて食べると、何杯でも食べられる気分になった。
実際、持ち帰りを頼むと、ゆかりを混ぜたおむすびを作ってくれた。
残業の時に頼んだ記憶がある。

だるま食堂を利用していたころ、周りは私を押しの強い男と勘違いしていたに違いない。
誰にも言ったことはなかったが、一度は世間を見てから親の店を継ぐという気持ちで私は入社したのだった。
会社を辞めるつもりでいたから、何をやってもかまわないという気持ちが私の中にあった。
会社の人間が来るはずのない遠く離れた菓子屋の後を継ぐのだから、それまでは旅の恥は掻き捨て、に近い心情だった。
30才になったら菓子屋に戻るのが、父との約束だった。
お前は店全体を見てくれればいい、老舗に必要なのはそういう人間だと父親は言った。
20代は世間を見てきたほうがいい。
俺だってまだまだ自分のやり方で好きにやりたい。
そのころがちょうどいい交代時期になるだろう。
父と私だけの約束だった。
幼いころから、長男の私と弟や妹たちとでは父の扱いは違った。
私は老舗の跡取りを自覚させられた。
老舗といっても、地方の小さい菓子屋だ。
それでも私自身には店を守り育てるという気持ちがあった。
自分の仕事が決められているのはうっとうしくもあったが、それ以上に暖簾を守る気概があった。
自分で苦労して仕事を探さなくてもいい気楽さもあった。
父と交代するまでは、何をしてもいいのも魅力だった。
元々の自分ではできないこともできる。
だから、周りに嫌われようが平気だった。
図々しくふるまっていたが、うまくいくことも多かった。
おかげで、同期の中では昇進も早かった。
こんなことが長続きするわけもないと思っていた。
それで当然という思い切りの良さが、偶然にもみごとに当たっていただけだ。

30間近になったころ、珍しく父親が上京してきた。
そろそろ帰郷する時分だろうと私も考えた。
これからは俺が頑張ります、よろしくお願いしますと真面目な顔をして言えばいい。
父親が珍しく、有名な寿司屋に連れて行ってくれたのも、世代交代の演出だとばかり思っていた。
ところが、思いがけないことを父は口にした。
おかげで、鮓を味わう余裕は全くなくなってしまった。
そんなことなら、喫茶店で会ったほうがましだった。
故郷に無理に帰らなくてもいい、人気企業に入れたのだからそのまま働いてくれてかまわないと父親は私に言ったのだ。
父親が再婚することを、そのとき私は初めて知った。
母親は私が高校入学の年に亡くなった。
祖父母がまだ元気で、弟や妹は祖母や従業員たちが育ててくれたようなものだ。
周りが勧めたにも関わらず、父に再婚の意思はなかった。
それから10年近く過ぎ、父がこのままずっと独身でいるとばかり私は思い込んでいた。
父は再婚相手に刺激され、店に対して意欲が出てきたらしい。
話を聞けば聞くほど、私にはその女性が怪しく思えてならなかった。
「あいつらもな、和菓子屋なんてと言ってたくせに、このごろはやる気になっているんだよ」
父は弟や妹の名前をあげて、嬉しそうな顔をする。
老舗の和菓子屋を守るだけでなく、新業種の店を出すらしい。
「お前が継ぐには、あの店は小さすぎるよ。
ここで好きにやってくれたらいい。
これまで、しばりつけておいて悪かった」
こちらの思惑など無視して、父はさっぱりとした気持ちになったのか、おいしそうに鮓を平らげている。
「冗談じゃない、こっちにだって段取りがあるんだよ」
父にそう言わなかったのは、なぜだろう。
自分の弱さなのか、気取っていたのか、わからない。
今になれば笑えるが、あの時、私は完全に焦っていた。
定年まで勤めなくてはならなくなった会社で、これからどう生きていけばいいのか。
情けないことに、私は自分の気持ちすら伝えられなかった。
結局は父の意向を認めたのと同じだった。
そのうちに身内だけで結婚式をするから祝ってほしい、父は少し照れながらそう言った。
もしかすると最後には自分を頼ることになるかもしれないと望みを託したが、再婚相手の年齢を知って落胆した。
私と10歳しか変わらない。
彼女は家業に積極的に関わるつもりらしい。
妹や弟に関心を持たせた手腕も、悔しいが認めざるを得なかった。
これでは自分の出る幕はない。
ため息が出るような気分だったが、父親の嬉しそうな顔を見ると何も言えなかった。

本来の自分ではない性格を会社で演じてきた、明日からどうやって出社すればいいのだろうと私はひどく不安だった。
しかし、翌朝目覚めると、いつもと同じ自分がいた。
通勤電車で吊革を握っているうちに、いつのまにか自分が変わっていたことに少しずつ気づいてきた。
10代のころの、少しだけ繊細で怖がりだった自分を本物の自分だと思いこみすぎていたのだ。
周りから自分を変えろと強制されたわけでもなく、職場をきっかけに自分の隠れた一面が見えてきただけだった。
よく考えてみると、自分だけが跡取りになると思い込み、周りもそう思ってくれていただけだ。
この会社に定年までいるのかと思うと、がっかりするようなうんざりするような気持ちだけは確かだった。
勢いがなくなっているにしろ、一応老舗と言われている実家を立て直し、再生するシナリオは魅力があった。
再生できる保証はないが、今の職場に飽きたころ、自分を必要とする仕事があるというのは希望になっていた。
夏休みの計画が急に消えたような、そんな気分だった。
誰にも言っていないのだから、計画が頓挫しても誰も興味も持たない。
残念がってくれる人もいないし、いい気味だと思う人すらいない。
さすがの私も落ち込んでいたが、周りは少しは角が取れてきたとよく解釈してくれた。
私は幸運な人間らしい。

一番幸運だったのは、だるま食堂の娘さんと話をするようになったことだ。
それまでは、夕食は自炊していたのだが、すっかりやる気をなくしてしまった。
週末にスーパーで買い出しをするのも面倒になった。
牛乳やちょっとしたものなら、コンビニで間に合う。
退社後に会社の近くのだるま食堂に入ると、夕食には少し時間が早い。
しかし、夕食はこの店と決めると、楽だった。
駅から降りて歩きながら、どの店にしようかと考えなくてすむ。
仕事帰りの疲れた体には、そのやり方が便利だった。
会社に行って仕事をし、帰りはだるま食堂に寄るというのが私の道順になった。
「あたしに気があるのかと思っちゃった」
妻からそう言われたことがある。
私ははっきりとは返事はしない。
彼女を嫌いだったら、店に通いはしなかったろう。
料理をテーブルに運んでくれるとき、一言二言会話をするが、彼女は明るく元気で気持ちがよかった。
ただ、申し訳ないが最初から彼女に興味があったわけではなかった。
だるま食堂の食事は、特別なものがない。
焼き魚、野菜炒め、フライ、とんかつ。
こういったおかずのどれかを選び、飯を食べ、味噌汁をすする。
最後のひと口の飯にゆかりのふりかけをかける。
食事の最初と最後に娘さんと会話をする。
それが心地の良い食事だった。
夜、誰も客がいないときは、茶をつぎ足しに来たついでに二人で長く会話をすることもあった。
そうやっていつのまにか、彼女を好きになっていった。
どう見ても料理のほうが先だ。
だが、料理を出しているように見えて、実は彼女もその料理の下ごしらえや父親の手伝いをしていたのだから、
彼女自体が私の好きな料理だったともいえる。
一年後に私は彼女と結婚した。
父親の結婚式から半年後だった。
私は年齢からも当たり前なのに、親子で同じ年に結婚式をするのなら一緒にやってくれれば助かるのにと親戚にからかわれた。

だるま食堂は今も健在だ。
ただし、会社の近くではない。
交差点の角地にあっただるま食堂は、道路拡張のために立ち退くことになった。
ちょうどよかった、あんたに申し訳ないと思っていたんだよと義父になった食堂の主人は私に言った。
出世の妨げになるというのだ。
そんな古めかしいことをと私は笑ったが、社員食堂と間違われるくらい会社の人間が出入りする店だった。
店の人間は社員の親戚だと知ったら、気にする人間もいると義父は考えたらしい。
私たちもそろそろと思っていたからちょうどいい潮時だよと義父母は言い、遠い故郷の地に帰っていった。
私たちは一年に一度は義父母のもとに行き、白い暖簾のかかっているだるま食堂で食事をする。
子どもたちは食堂の定食はもちろんだが、ゆかりのふりかけを混ぜこんだおむすびが大好きだ。
長男の弁当には、きっとゆかりのおむすびがはいっているに違いない。
故郷で店を再開したのが義父母で、以前から計画していた私でないのが面白い。
世の中はわからないものだ。
妻は店を手伝えない代わりに、料理研究家になった。
彼女の気持ちのよい会話が、料理だけでなく生徒さんに好評なのだと私はひそかに思っている。
私は結婚前はだるま食堂、結婚後は妻の料理のおかげで生きている。
我が家はだるま食堂の支店に違いない。
私は妻の料理が好きだ。
必要にせまられて自分で作ることもあるが、おいしいとは思えない。
ただ、長男は妻の料理を好まない。
小学生のころから台所に立ち、好きなものを作っている。
次男や長女は私同様、普通に食べている。
だるま食堂を受け継いでいるのは、妻と長男に違いない。

悔しいが、実家の菓子屋は以前より大きくなった。
和菓子だけでなく、ジャムの店やアイスクリームの店も出している。
これまでになかったような店を考え出し、実際にオープンし、軌道に乗せている。
街の話題にもなり、弟や妹も張り切っている。
私よりも継母のほうが実家に必要な人だったと、この頃は思えるようになった。
父は継母の言うがままに、喜んで家業に励んでいる。
自分だけ実家から取り残されたと思ったことが、これまで私になかったわけではない。
しかし、私は自分が思っていたのとは違うタイプの人間だったようだ。
結婚し、新しい家庭を作り、あたふたしているうちに、実家に対し、少しだけ残っていた僻みも消えていった。
仕事は20代のころほどはうまくはいかない。
ただ、好調な波をうまく乗りこなせた時も、叩き落とされた時も、冷静に見ている自分がどこかにいる。
若い時分、自分はこういう人間なのだとなぜ思い込むことができたのだろう。
若くもなく、かといって定年はまだまだ先にある今の私には、自分がどんなやつなのか、ほとんどわからない。
わかりたいとも思っていない。
妻と子どもたちと仕事で、毎日試されているようなものだ。
それだけでじゅうぶんだ。