Novel(百物語)
02ten

バスを待ちながら

学期末が近づいた。
学校帰りの子どもたちは、まるで運び屋のように、たくさんの荷物をもっている。
ふだんは学校に置いているらしい荷物を持ち帰るからだ。
ランドセルの上には、体操着が入っていそうな布の袋が乗っかっている。
手には、みなおそろいのバッグをもち、水色のプラスチックケースも提げている。
あれは多分ピアニカが入っているに違いない。
それ以外にも、別の手提げをもっている子もいる。
近ごろは見かけなくなった、行商スタイルそのものだ。
傘を振り回している子、今日はよく晴れているから、学校に置きっぱなしの傘に違いない。
小さななりの小学生がよくもまあ、あれだけの荷物を持てるものだと感心するが、当人たちはじゃれあい、走りまわり、荷物の多さに困っている様子もない。   
「こんなたくさんの荷物なんて無理よね」と母心で 心配する親を、子どもたちはいつも利用する。
親が手を差し伸べようとするとき、子どもたちは「大変なんだ」という態度さえとればいい。
そうすれば、すぐに親は手伝ってくれる。
かつての私もそのひとりだった。
傍から見たら、結局は過保護な親のひとりだったにちがいない。
見てごらん。
荷物に埋まりながらも、大声を出しながら坂道を走り下りているのが子どもたちだ。

私はバスを待っている。
バスはなかなかやってこない。
バス停は、学校の正門と道路を挟んで向かい合っている。
校門から、数人ずつ塊になって出てくる小学生を眺めているしかないのだ。
あの年頃の私は、と考えても、ほとんど何も思い出せない。
そうそう、読書感想文を書くのが大嫌いだった。
本を読んだ後の、いまだに現実に戻っていない感覚が好きだった。
一瞬だけ、確かに私も本の世界に浮遊している。
しばらくすると、おやつが気になったり、ごはんはまだかという現実にどっぷりつかってしまう。
本を読むことは、その楽しみを知るだけで十分ではないかと考えていた。
読書感想文を書くのが単にいやだったからだけの話だが、小学生のくせに自分なりに世の中がわかったような気持ちになっていた。
突飛な比喩だが、あのころの私は、人間というよりは犬に近かったのかもしれない。
子犬でなくなった犬は、まだ成犬に達しなくても自信満々に見える。

当時の私がまったく理解できないお話がひとつあった。
「三つの願い」という題名だったと思う。
難しくてわからないというのではない。
あまりに馬鹿げていて、なぜ、主人公がそんな失敗をするのだろうかと不思議でならなかった。
担任の先生は、読書感想文を書く時、必ず「私が主人公だったらと想像してみましょう」という。
私はそれが嫌いだった。
私が主人公でないから、私はお話を楽しく読んでいるのに。
私がその話の主人公なら、成功することは百パーセント確実だった。
話の中にずかずかと入り込み、主人公を説教し、望みをかなえてやれると信じていた。
「三つも願いをかなえてもらえるなんて、ふつうはありえないことです。
それなのに、何ももらえなかったなんて、私はびっくりしました。
自分がほしいものを言い合って、夫婦がけんかしたからです。
『ああ、ソーセージが食いたいな』と亭主が口にして、お願いをひとつ使ってしまいました。
かんかんになった女房と亭主がけんかし、『あんたの鼻にでもぶら下げておけばいい』とわめいて、二番目の願いも使ってしまいました。
三つ目のお願いは、鼻を元通りにすることに使いました。
夫婦はよかった、よかったと言って仲良くなりましたが、私はそう思いません。
せっかく三つもお願いができたのに、何にも使えなかったなんて、もったいないと思います。」
小学生の私は、たしか、こんなことを書いたはずだ。
あの話の結末が、まったく不可解だった。
なにが良かったのだろうかと。

今の私には、あのお話が長い間語り継がれてきたことが一応は理解できる。
人生は、あのお話に似ている。
ようやく私が気づいた時、小学生の頃に提げていたランドセルや体操着入れ、ピアニカ、夏休み前に持ち帰った朝顔の鉢は消え、
その代りにそれと同量の肉の塊が私の身体にくっついている。
くだらない喧嘩や誤解、さまざまの言い訳で、チャンスも無駄にしてきた。
それでもどうにか生きてこられたと思えるのは、喧嘩をした後で仲良くなっているあの夫婦そのものだ。
私があの主人公だったら、という読書感想文を今の私は書けない。
なぜなら、私があの主人公なのだから。

何でもかなう願い事は、無駄に使ってもたいしたことはないと気づいたのはいつ頃だろうか。
もちろん、かなうほうが嬉しいのだろうが、宝くじ同様、かなわなくても人生はやっていける。
それ以上に、もっとむつかしいことがあった。
他人を羨んだり、ひがんだり、時によっては恨んだりする感情だった。
成長すればするほど、そういった感情に振り回される。
いけないことだと封印すればすむものでもなかった。
食べ物がいつのまにか腐っていくように、知らず知らずに僻みや妬みは生まれてくる。
みんなの目が節穴で、自分のほうが優れているのだと思うと楽にはなるが、自由になれるわけではない。
マイナスの感情をばねにして、自分を向上させるエネルギーにさせればいいという人もいる。
負けず嫌いは大切だと説く人もいる。
残念なことに、いろんなやり方で試してみても、その場が収まるだけの話で、また同じことの繰り返しだった。
あったらいいなと思う願い事に比べて、なければいいと誰もが思うこの感情を制御するほうがずっとむつかしい。
願い事の話は、無駄にしても笑い話で終わることができる。
だからこそ、人はあのくだらない話が好きなのだろう。

バスの姿が見えないかと、私はベンチから立ち上がる。
車は絶え間なく通るのに、バスだけがこない。
仕方なく、私はまたベンチに座る。
宝くじや流れ星でもなければ、願いごとは思いつかないが、妬みや嫉みの感情はしばしば生まれる。
つい数日前も、私はまたもやその感情に打ち負かされていた。
陽の当たるベンチに座ってバスを待っていると、病院の中庭でひなたぼっこをしている患者のように思えてくる。
手術をするほどは重くないが、妬みや嫉みの感情が私を病人にする。
ふり返ると、子どものころに読んだ昔話は、嫉妬は悪いものだと教えてくれていた。
すべてが分かったと思っていた小学生の頃は、まったく気が付いていなかった。
舌切り雀の舌を切ってしまうおばあさん、花咲かじいさんの犬を殺してしまうおじいさんは、単なる悪者だと思っていた。
悪いおじいさんだから、あんなことをする。
悪いおばあさんだから、とんでもないことをする。
頭からそう思い込んでいた。
しかし、善人の主人公の隣に住んでいた人たちが悪者に転落していく原因は嫉妬だ。
なぜ、隣のあいつだけが幸せになるのか、自分だっていい思いをしたいと相手の真似をしたことが悲劇につながる。
悪者というよりは、妬みや嫉みに振り回された結果だ。
そんな昔話ばかりではないかと、改めて驚かされる。
悪いやつと切り捨てていたほうに、大人になった自分が近いことに気付く。
昔話は、隣人を羨んだおじいさんやおばあさんを助けることはしない。
嫉妬の結果を、冷たく伝え、読んだ側は、彼らを悪人と思う。
妬みや嫉みの感情をどう扱えばいいのか、なぜ教えてくれないのだろう。
教えようがないにちがいない。

解決はあれかもしれない、と私はベンチで考える。
泣いた赤鬼の友人の青鬼だ。
青鬼は、赤鬼が村の人と仲良くするためには自分が邪魔だと思い、置手紙を残して去っていく。
赤鬼は友情だと思って泣く。
たしか、私も先生にそう教えられた。
しかし、青鬼が赤鬼と同じようなことを考えていたとしたらどうだろう。
いち早く実行に移した赤鬼のアイデアがうまくいくかもしれないと思ったとしたら。
今更、赤鬼と同じことはできない。
村人と仲良くなるかもしれない赤鬼を、青鬼は落ち着いて眺めていられるのだろうか。
嫉妬の感情が生まれる前に、その場を去っていくほうが、友人の赤鬼に対してではなく、自分が楽だったのかもしれない。
嫌な感情が生まれそうだったら、その場を立ち去る。
「泣いた赤鬼」の話にこんな感想文を書いたら、先生は目を丸くしたに違いない。
考え付かなくてよかった。
昔話も嫉妬の解決は教えてくれない。
人生の処方箋は、陽の当たるベンチで自分で考えるしかない。
向かいの歩道の小学生のように、走り回っているわけではないのだから、そのくらいの暇はたっぷりあった。

おやつを食べながら、小学二年生の女の子は母親に言った。
「バス停におとなりのおばあちゃんが座ってたよ。
あたしが手を振ったのにわかんなかったみたい」
「そうだったの、残念だったわね。おばあちゃん、よく見えなかったのかもね」
母親は娘の食べっぷりを見ていると自分もひとつつまみたくなり、台所に取りに行った。
ついでに、台所の窓からお隣をのぞき見る。
隣家の居間の窓が開いていて、おばあさんの姿が見えた。
テレビを見ているようだ。
よかった、帰っている。
思わず知らず、母親は安堵した。
境界線ぎりぎりに家が建っているのも、安否確認には便利なこともある。
結婚し、長男が授かったことが分かるとすぐに無理をして建てた家だった。
住宅街とはいえ、端も端のいびつな土地にあり、家自体も周りに比べると見劣りがする。
ただ、隣人には恵まれた。
引っ越した当初から、ひとり暮らしのおばあちゃんが住んでいた。
この家での子育ては、本当に気楽だ。
友だちがたくさんやってきても、サッカーボールを壁打ちしても、おばあちゃんはあまり文句を言わなかった。
もちろん、若い両親も近所付き合いには気を付けているつもりだ。
あの当時からおばあちゃんだったが、近ごろはめっきり年を取ったように思える。
もともと、顔を合わせることもそう多くはない。
親しいとは言えないのかもしれない。
ただ、ゴミ出しの時に会えば、互いに挨拶をする。
町内会の回覧板をもっていくこともある。
母親の祖母よりは若いかもしれないが、似たような年だろう。
子育てやパートで忙しい母親にとって、隣りのおばあさんは境界線の塀と同じくらいの興味しかない。

バスが来ないので、私は家に帰った。
コンビニで買ってきた弁当を食べ終わった時、自分がなぜバスを待っていたのだろうとふと考えた。
どこかに行く予定はなかった。
きっとバス停のベンチに座っていたかったのだろう。
どうも自分の行動すら、おぼつかなくなっている。
やれやれ困ったと思いながら、台所の流しで弁当箱を洗い、プラスチックごみ入れに入れる。
ついでに、市役所が届けてくれるゴミカレンダーを確認する。
明日は燃えるごみの日だ。
ゴミ箱をのぞいてみるが、大して入っていない。
これなら、明日は早起きする必要もない。
もう一度食卓に座り、お茶を飲んでいると、隣の子どもたちの声が聞こえる。
両親は会うたびに「うるさくてすみません」と恐縮するが、子どもたちの声は私には心地よい。
あの若い親たちには言えないが、私にはスズメやヒバリの鳴声に近い。
動物の声を聞いていると思えばいい。
ああやって人間も育っていくに違いない。
そういえば、遊びに来た子もいたと思い出す。
鍵を忘れて家に入れないと、べそをかいていたのに、家に入れたら、好奇心のほうが勝ったようで、あちこち探検していた。
「おばあちゃん、これ何?」
と私を質問攻めにした。
おやつを食べたり遊んだりしているうちに車の音が聞こえた。
「あっ、おかあさん帰ってきた」
急いで玄関に走る子どもの姿には、一時間前に泣いた様子などみじんもなかった。
いったいあの記憶は何年前のことだろう。
隣りに何人子どもがいるのか、私は知らない。
知っていたのにもう憶えていないのか、興味がないのか、どちらなんだろうと私は考える。

布団に入ってラジオをつける。
窓の向こうから、水を流す音、子どもたちの声が聞こえる。
寝室は、隣りの家の洗面所や浴室と向かい合っている。
今からお風呂なのかと私は想像する。
私の一日はとっくに終わっているのだが、隣りの夕食はまだなのかもしれない。
少しも聞いていないラジオが流れ、その中のひとつの言葉に私の頭が反応する。
そうだ、バスを待っていたのはあのせいだと私は気づく。
以前、親しかった人がある喫茶店を教えてくれた。
足の不自由な人だったが、バスに乗ってその店に行くのだという。
「特別な店じゃないのよ、でもね、何となく居心地がよくてね」
へええと頷きながら、私は店の場所を教えてくれるだろうと期待していた。
ところが、なかなか教えてくれない。
私から聞けばよかったのだが、彼女の話が終わるのを待っているうちに忘れてしまった。
たったそれだけのことなのだが、気になっていたのだろう。
彼女が使うバスは決まっている。
バス通り沿いにあると言っていたから、私は探検するつもりだったに違いない。
そう、茶という名前がついていたと私は思い出した。
さあて、明日でも、もう一回挑戦してみるとするか。
宝探しに出かける時は、こんな気持ちかもしれない。
おかげで、私の気分は明るくなる。
明日になれば忘れてしまうかもしれないが。
ラジオから流れる音楽が、私の枕元で渦を巻いている。
その中に私は滑り込んでいく。
「おばあちゃん、ロック聞いているんだ」
隣りの家の風呂場で、高校生の息子が窓を開けて驚いている。