Novel(百物語)
02ten

五月の海

起きて、海に行く。
座って、海を見る。
五月の空は明るい。
海も青い。

潮が引いていく。
取り残された貝がら、小石。
波は貝を連れ去ろうとし、貝は残った。
ふたすじの跡をのこして。
砂の上はすべて、規則正しく波の跡がある。
じっと眺めていると、今度は自分の足元から海水がぐうっと押されていく。
砂の色が変わっていく。
足をふみだすたびに、砂の表情が変わる。
今にも壊れそうな、はかないものの上に乗ってしまったかのような気分。
急に足の運びがおぼつかなくなる。
こわさないだろうか。
足元の大切なものを。

遠くで私は眺めている。
子どもたちを。
何をしているのかわからないが、波と遊んでいるようにも見える。

三十年以上も前に、夜中、女の子と海に行ったことがある。
高校の卒業式の夜、彼女の家に行った。
彼女の父親に、無事卒業したことを伝え、頭を下げてお願いした。
「彼女と一時間だけ話をさせてほしい」
玄関で待っていると、サンダルをつっかけて、彼女が出てきた。
「父が許してくれるなんて、信じられない」
私と出かける喜びより、父親が夜に二人を出してくれた驚きばかり、彼女は強調した。
いや、私がただそう思ったのかもしれなかったが。
その夜、私は彼女にささやかなキスをしただけだった。
肩に届く髪を掻きあげ、うなじにキスをした。
「待っているから必ず来てくれ。」
そう言うと、彼女は真剣な眼差しで頷いた。
残っている国立大学の受験をがんばることと、二年後に大学で再会することを約束した。

不思議な話だが、あの時、私はプロポーズをしたように思っていた。
きっと彼女もそう思ったに違いない。
一緒になる、そんな思いがふたりにあった。
そんな約束は、口にしていないのに。

彼女が二十歳になっている姿を、私は想像できない。
まして、三十や四十の彼女は、もう無理だ。
高校を卒業する前に死んでしまったのだから。
もし、結婚していたら、と思うときがある。
自分はどんな生活をしているのだろう。

病気の子どもたちを楽しませるプロジェクトにかかわったのは、偶然だった。
勤めている会社が、資金協力をしており、その日雇った運転手が、自分の子どもの事故で急に休むことになったからだ。
上司からの電話は有無をいわさぬものだった。
うんざりしながら出かけたのだったが。

海に行く、と云う言葉には特別な響きがあるに違いない。
病気の子どもたちは、その言葉に、もう潮風を感じる。
行くまえから、わくわくしていた。
まあ、良かったかな。
自分でも思う。
休日にひとりでいても、夕方がくるだけだ。

高校生の夜のデートは、防波堤まで行き、海を眺める、ただそれだけだった。
かまぼこ型の防波堤を、サンダル履きの彼女は登れず、私が引っ張り上げた。
その反動で、抱きしめることもできた。
あの防波堤は、もうない。
その先を埋立地が広がっている。
石油コンビナートに変身した。
遠くにかすむ巨大な建物を、湾の反対側から私は眺めている。