Novel(百物語)
02ten

ボス

書家だった姑の後を継ぎ、3年が過ぎた。
姑の頃よりも弟子は多くなってしまった。
姑が亡くなってからは、先生と呼ばれるようにもなった。
嫌だったが仕方がない。
まだ慣れない。
姑が存命のときは、先生と呼ばれるのは姑ひとりだった。
「あなたも先生だから」
姑は言ってくれたが、私は単なる助手でしかなかった。
謙遜ではない。
もちろん、私だって頑張っている。
だからこそ、書家として生きていく覚悟もした。
しかし、彼女とともに暮らし、彼女の書を目にしていれば、先生は姑ひとりだとわかる。
どうしようもない力の差だった。
姑はきれいな人でもあった。
年をとっても、肌は白く、
「白髪頭のおばあさんですよ」
おっしゃるその笑顔が、なんとも言えず美しかった。
皺のない、若い自分の肌が、のっぺりと見えた。
何においても勝てないと、つくづく感じた。
夫は全く書に興味はない。
「お義母さんと長年暮らしていて、興味がなかったなんて信じられない」
私がそう口にしても、
「そんなやつはいくらでもいるさ、絵描きの息子がみんな絵描きになるわけないだろ」
と言う。
「みいちゃんはずっと続けてきたけど、やめる人はたくさんいるだろ?
子どもの時に習っていた人なんて、いくらでもいるさ。
僕はみいちゃんの夫だけど、みいちゃんは書と結婚したようなもんだよ。
みいちゃんはすごいんだよ、自信を持ちなよ」
夫はいつまでも私のことをみいちゃんと呼ぶ。
彼と結婚し、もう15年が経った。
いい年をして、みいちゃんも恥ずかしい。
「ごめんなさい」
「謝ることなんかないよ、僕がそれでいいんだから」
私がなぜ謝っているのか、たぶん、夫はわかっていない。
私は彼が大好きだ。

彼が好きだったからこそ、やってはいけないことをした。
目の前にほしいものが二つもあった。
どちらもほしい、強く思った。
先生の息子である彼と結婚すれば、尊敬する先生と離れることもない。
一番弟子にはなれなくても、すぐそばにいることができる。
どちらもほしいがゆえに、私は先生のお気に入りになろうと努力した。
先生が私を認めてくれた後に、私が息子さんと仲良くなったら、先生は気持ちがいいに違いない。
順番をまちがってはいけない。
息子と仲良くして、自分の後釜を狙うやつだと思われたら、何もかもがうまくいかなくなる。
彼を大好きになったから、私は策略家になった。
私は先生に気に入られるため、必死で書に励んだ。
おべんちゃらを言ったわけではない。
先生が認めてくれる弟子のひとりになりたい、そう思い努力した。
それが、彼に近づく一番の近道のはずだった。
その通りになった。
何もかもがうまくいっている。
もちろん、今も私は日夜努力している。
しかし、夫が優しくしてくれ、生徒さんたちが私を慕ってくれればなおのこと、私にひそやかに語りかけてくる声がある。
自分が嘘をついたこと、それが無意識であったとしても、事実であることを、その声は私に向かって伝え続ける。
誰もがついやってしまう過ちなのではないのか?
人間はそんなに立派なものなのか?
いくら反論しても無駄だ。
なぜなら、その声は私の反論に「たしかにそうだね」と同意してくれるのだから。
同意してくれはするものの、「でも、あなたは嘘をついたよね」と囁く。
「ボス」と呼ばれた先輩を出し抜いてこの幸せを勝ち取ってしまった私は、自分の小さな嘘を忘れるわけにはいかない。
嘘と書き、私はその字を眺める。

「あたしが知っている書道塾、いい雰囲気なんだよ。
あんた、行ってみたら?」
会社の先輩から誘われたのが、姑との出会いだった。
先輩の情報では、月謝も相場に比べても高くはなかった。
その金額なら、自分の給料でもどうにか払えると気持が動いた。
会社が終わればすぐに家に帰り、筆をもつ日々を続けていた。
一時期は書道グループにも入った。
しかし、私が想像していたような会ではなかった。
切磋琢磨しないような会員同士の交流など、私には不要だった。
結局、ひとりで紙に向かう毎日だった。
ただ、ひとりというのは迷いがおきやすい。
流されているのではないだろうか、これでいいのだろうかと自問自答しているころだった。
誘ってくれた先輩は、秘書課に所属する、背の高い美人だった。
監査役のおじいさん方からは、圧倒的に人気があった。
偉い人たちがおっしゃるには、美人と言うよりは、賢いのだそうだ。
礼儀正しさと親しさ、時によっては相手に合わせての不調法、そのぎりぎりの線で、にこやかに対応するさまは見事だというのだ。
独身の取締役からプロポーズを受けた、だの、広報室、企画室からも誘いがきているとのうわさもあった。
しかし、同じフロアの私にとっては、厳しい先輩でしかなかった。
陰で私は彼女のことをボスと呼んでいた。
書類の書き方に始まって、花瓶の洗い方まで容赦ない。
うるさいなあとは思ったが、そんなそぶりは決して見せなかった。
怖かったからだ。
ただ、なぜか嫌いではなかった。
上司にだけ笑顔を見せたり、男性に媚を売るタイプではなかったからかもしれない。
ボスと親しくなれるなんて、考えたこともなかった。
同じ会社の社員とはいえ、ボスは華やかで美しく、私は地味に仕事をしているだけだった。
仕事をしたいというよりは、給料で筆や墨が買えることが私には大事だった。
他のことを切り詰めていたから、付き合いの悪い社員だった。
「お昼、一緒に食べに行こう」
とか、
「帰りにコーヒー飲まない?」
と、誘われても、
「行きません」
と、私は何の遠慮もなく断っていた。
理由は簡単だった。
付き合うお金はどこにもなかったのだ。
一番困るのが、課や部の飲み会だった。
女性は半額ではあったが、突然今週の金曜日などと言われると、頭の中は仕事よりも、お金の算段が優先する。
「飲み会というと、嫌な顔をする、少しはまわりのことも考えろ」
と、上司に面と向かって怒られたこともあった。
事情を話せば、許してもらえたかもしれない。
しかし、お金のかかる趣味があるなどと言いたくもなかった。
書は私にとって趣味などはなく、会社の仕事よりも大事なものだった。

「あんた、お金がないんでしょ、内職しない?」
ボスがある日、私にそう言った。
受付嬢が風邪で休み、私は急遽、受付に座っていた。
受付に近づき、花瓶の花をさっと活けなおすボスをぼんやり眺めていた私は、不意打ちをくらった。
「先輩には関係ありません。」
私は小さな声で言った。
「まあ、いいから聞いてよ。
あんたが字がうまいのはよく知っているわ。
プロになるような人が、なんでこんなところにいるの?
まあ、それはいいんだけど、急に毛筆の字が必要なのよ。
お願い、力、貸して。
ただなんてことは、絶対しないから」
あの時、黙って頷いたのは、ボスの言葉が嬉しかったからに違いない。
食べていくために、会社勤めをしてはいるものの、自分の道は書だと思っていた。
少しは認められてはいたが、自己満足だと自分に厳しく言い聞かせていたのだ。
ボスが私に頼んだ毛筆書きは、役員のひとりから頼まれた私的な仕事だった。
昼休み、私はボスの後をついて役員室に行き、しばらく練習をした後、筆を動かした。
「君、すごいな。いや、助かったよ」
初めて会った役員は喜び、何度も助かったと口にした。
私は報酬をもらい、トイレで中身を調べ、その額に驚いた。
慌ててボスに会いに行くと
「こんなにたくさんもらえませんって言うんでしょ」
とにこやかな顔で私のセリフをとられてしまった。
「いいじゃない、いいことしたんだから。
役員さんもあせってたのよ。
あんたって変な子だよねえ。
この間、課長にひどいこと言ったでしょ。
そのくせ、今度は気を遣って心配しているんだから」
ボスは、にやっと笑ってそういった。
私は顔を赤くした。
課長があまりにしつこかったから、確かに私は怒鳴ったのだ。
「飲みたかったら、勝手に行けばいいでしょう。
なんで行きたくないやつまで誘うんですか。
一度断れば、わかりませんか。
私は行きたくないって言っているんです」
何を言われようが仕方がないと覚悟したが、驚いたことに、課長は黙ってすっといなくなってしまった。
「なんか面白いんだよね、あんたって。
めちゃくちゃ悪く言う人ももちろんいるけど、あの子大好き派もいるんだよ。
あんたは知らないよね。
自分のこと一番知らないのは自分だよ。」

そんなことがあって、ボスとは親しくなった。
紹介された書道塾にも心が動いたが、なかなか行動できなかった。
実際に伺ったのは、一年も過ぎた夏のころだった。
先生のお宅は小さな和洋折衷の家だったが、何となく趣があった。
通されたのは畳の部屋で、そこに籐椅子が三脚あった。
「足が悪いので、こんなおもてなしでごめんなさい」
先生は、冷たい麦茶を入れてくださった。
「この子がぐずぐずしているから、こんなに遅くなってしまって。」
ボスは、茶化すように私を紹介した。
私が思案している間に、先生は書道塾をやめてしまったのだ。
ただ、熱心な生徒は、相変わらず集まっているらしい。
「皆さんと一緒に書いているんです。
自分で納得したものを持ち寄って、互いに批評したりしてね。
あなたもよかったら、遊びがてら、いらっしゃいね」
先生は優しく私に声をかけてくれた。
暑い日だった。
小さな扇風機が首を振り、ぬるい風がゆっくり動いていた。
「せっかくいらしたんだから、ちょっと書いてみますか」
そう先生にうながされ、数枚の半紙に筆をおろした。
筆はもちろん持参していた。
先輩も籐椅子からおりて、私のそばに座った。
「素直な字ですね、いいですね」
先生が褒めて下さった。
嬉しかった。
「よかったねえ」
先生のお宅を出て、大通りに出たとたん、ボスは大声で言った。
「あんた、気に入られたんだ。
どこがいいのかなあ。
あたしには、そんなにいい字には見えないんだけどなあ」
ボスは先生との関係を、帰り道に話してくれた。
大学の同級生のお母さんだという。
「でも、息子は字は下手でね」
そういって、ボスは笑った。
男友達のいない私には、ボスと息子さんがなんだかうらやましかった。

先生のお宅に伺うようになって、私は時々息子さんを見かけるようになった。
「君がみいちゃんなんだ」
親しげにそういわれた時、ひどく恥ずかしかった。
「ボスから聞いているよ。
あいつも時にはいいことするんだ。
おふくろ、とっても喜んでいたよ。
いい人を紹介してもらったって」
「ボスって、影山さんのことですか?」
私が勝手につけているあだ名を耳にし、私は驚いた。
「そう、影山で、影のボス。
だって、なんだかボスみたいじゃない。
背も高くて、こわそうだしさ」
「大学がご一緒なんですよね」
「そう、理系だから女が少なくてね。
クラスに3人しかいなかった。
だからもてた」
ボスはクラスに女が100人いても、人気者だったにちがいない。
「あいつ、メーカーの研究室に就職したはずだったのに、プレゼンがうますぎて本社にスカウトされたって聞いたことあるよ。
今、どこにいるの?
同じ会社なんだって?」
「先輩は秘書課です」
「あいつが秘書課?」
息子さんはげらげら笑い出してしまった。
ボスと息子さんは、私には恋人以上に仲良く見えた。
息子さん以外にも、以前から私はみいちゃんと呼ばれることが多かった。
実は、みいちゃんと呼ばれるのは苦手だった。
小学生のころは、未熟児みいちゃんとからかわれた。
未希とかいて、みきと読む。
普通、名前で「み」という字が付くときは、美が多いのだが、私の名前は未熟の未なのだ。
未来の未ともいえるが、成長しそこねたような体つきは、まさに未熟そのものだった。
ところが、先生の息子さんが私をみいちゃんと呼んだ時、私は嬉しかった。
これまでのように、未熟のみいちゃんなどという感じはしなかった。
初めて、わたしはみいちゃんという呼び方が好きになった。
自分が先生の息子さんに好意を持っているとは、まだ気づかなかった。
息子さんがボスのことを、気持ちよくおしゃべりをしているのが、うらやましいだけだった。
私は二十代の勤め人にも関わらず、高校生に間違われた。
時には、中学生に見られることもあった。
身長も低く、痩せていて、自分の容姿には全く自信がなかった。
ボスはスタイルも洋服のセンスもよく、華やかな雰囲気があった。
ボスと一緒に歩いていると、男性だけでなく、通りすがりの人の視線を感じる。
私には初めての経験だった。
ボスは慣れているのか、そんなことは全く気にせず、歩きながら、私とおしゃべりし、笑う。
会社でもボスと誰かの噂が出るのは、こういうことなのだろうと私は思った。
私が会社の人と歩いていても、誰も見向きもしないが、ボスがその男性のそばに立ち、楽しそうに笑っているだけで、絵になる。
あの二人は何かある、そう思うこともあるだろう。
私がボスを好きだったのは、性格の良さもあったが、見事に美しかったからだ。
ボスは先生と電話でおしゃべりをする間柄らしかったが、私の話がでると自分のことのように喜んでくれた。
「よかったね。
喜んでいらしたわよ。
あの子はそのうち、私を超えるって。
すごいね、あんた」
真剣に書に向かえば向かうほど、私は先生の息子さんが好きだということもわかってきた。
息子さんが私のことを嫌いではないことも、感じていた。
ただ、当時は、子猫が可愛いように、みいちゃんもそういうものでしかなかったはずだ。

先生のお宅に通うようになって3年目に、私は大きな賞をとった。
先生のおかげで、私の書は上達した。
本当に先生のおかげだった。
先生のためなら何でもお役に立ちたいと、私は心から思った。
その気持ちは嘘ではない。
先生の書に向かう気持ちは誠実で、名誉を求めず、質素な生活をしていらした。
「みいちゃんが娘になってくれたらねえ」
いつのころからか、先生はそう口になさるようになった。
「そんな」
先生以上にそう願っている自分を隠していたからこそ、私は顔を赤くしたのかもしれない。
先生がそう思い、私が息子さんを愛し、息子さんも私を好きになってくれたのだからそれでいいはずだ。
しかし、ひとつだけ忘れられないことがある。
先生が、私を息子さんの結婚相手にと口にするようになってからのことだ。
先生のお宅から帰ろうとすると、息子さんが送ってくれたことがあった。
遅い時間だから駅まで、というのが理由だったが、先生がわざわざ息子さんに私を送らせたような形だった。
歩きながら、息子さんが急にボスの話題を口にした。
そのころ、私の勤めている会社は新しい研究開発のための子会社を作っており、それが新聞上にも話題になっていた。
ボスは、その新会社に広報責任者のひとりとして、出向することになっていた。
通勤時間があまりにかかるという理由で、ボスは引っ越しをし、私も手伝った。
引っ越しのせいで、子会社の社長とボスが結婚するという噂まで出ていた。
それがまったく噂でしかないことも、近くにいた私はよく知っていた。
「ボス、引っ越したんだって?
この間、急にメールが来て、驚いた。
すぐに連絡したんだけど、なしのつぶてでさ、あいつにしては珍しいんだけどな」
息子さんはちょっと寂しそうな顔をした。
「あいつ、誰かと結婚するの?」
「いえ、そんなこと聞いていませんけど」
私はゆっくりと答えた。
息子さんがボスのメールを待ちわびているのは確かだった。
嘘を言ってはいけないが、ボスが誰とも付き合っていないことを正直に答えるのだけはやめようと思った。
「あいつ、人気あるんだよね。
みいちゃん、何か知らない?」
「そんなこと言われても」
私は困った顔をした。
「ごめん、ごめん、そうだよね。
みいちゃんを困らせてごめん」
息子さんは、何かしきりに頷いていた。
「あいつはあいつさ」
それからしばらくして、息子さんは私にプロポーズしてくれた。
たったそれだけのこととも言える。
しかし、あの会話で、私はボスに不利になるようなことを匂わせなかっただろうか。
今も私は駅までの道のりを思い出す。
新会社設立で忙しかったボスは、しばらく私にすら連絡をしなかった。
引っ越し先の住所も知っていたが、私も行ってみることもしなかった。
私がボスに連絡したのは、結婚が決まった時だった。
「わあ、びっくり。
でも、おめでとう。
本当によかったね。
コウのおかあさんもきっと喜んでいらっしゃることでしょう。
私が仲人みたいなもんだね。
忙しくて連絡もせず、ごめんね」
ボスから優しいメールがすぐに届いた。

ボスは私たちの結婚式には出席しなかった。
出向した新会社が急速に発展し、アメリカに子会社を作ることになった。
そろそろ本社に戻る頃なのに、ボスはアメリカの新会社の広報担当となった。
自ら手を挙げて行ったと聞いたとき、私はボスらしいと思った。
ボスは私のように、未熟のみっちゃんでいじけてなどいない。
未熟者の私をかわいがり、美しいがゆえに作られる噂にもいじけず、悔しいことはさっさと捨てて別天地に行ってしまう。
書で先生に追いつかなかったように、私はボスにも負けたと思った。
ボスがアメリカで交通事故にあい、亡くなったとき、誰もいない場所で散っていった彼女を思い、私は涙が止まらなかった。
「コウをよろしくね。
あいつ、面白いやつだよ」
ボスの最後のメールを私は消すことができない。