Novel(百物語)
02ten

あの人、だあれ

黄昏時が好きだ。
人、物、その存在が曖昧になり始める頃。
何よりも、その言葉が心惹かれる。
たそ、かれ?
あの人、だあれ。
ふと漏らした声が、そのとおりの言葉になるなんて。

買い物の帰りに、公園に立ち寄る。
小学校に隣接した、小さな公園。
遊ぶ子供の数も、次第にへっていく。
たそがれどきだもの。
子供たちはうちに帰る時間だ。

風が吹く。
葉群が揺れる。
山吹草の、黄色い花が散っていく。
静かに見つめていると、私は草むらにいる蟻のようだ。
誰の目にもとまらない。

自転車が次々に止まる。
高校生だろうか。
若い男たちが何人もいる。
サッカーが始まる。
私のあの子が生まれていたら、ズボンがずり落ちているような男の子になったのだろうか。
うるせえよと私に言っていたのだろうか。
すべて想像でしかない。

うちに帰って、牛乳を冷蔵庫にしまわなくては。
私はベンチから立ち上がる。

食事の後、テレビを見ていた夫が私に向かって言う。
「すまないけど、飲み屋に一緒に行くっていうのは、あんまり好きじゃないんだ。」
何を言ってるんだろうか、この人は。
わたしは夫の顔をぼんやり眺める。
生まれてこなかった、高校生になっているかもしれない子供とおなじくらい曖昧な夫の顔。
「この女の人は、いつも言うんだよ。
おいしいものを食べたかったら、奥さんを自分の好きな店に連れていきなさいって。」
夫は、テレビの画面から目を離さない。
私も知っている、きれいな女の人が元気よく話している。
「でもな、俺は、自分の好きな店にはひとりで行きたいんだ。
すまないが。」
「どういたしまして。」
私は答える。
「おいしいものを作れるわけじゃないから、気にしないで。」

久しぶりに、あの店に行く。
ちょうどいいことに、私しかお客はいない。
お茶を飲みながら、他愛もないことを店主と話す。
生まれなかった男の子のことや、夫が私を連れて行きたくなかった店の話はできない。
口にだそうと思っても、そんな勇気はない。

帰りに、高橋さんの絵葉書を買う。
鳥の絵葉書。
「花柄と違って、男の子も書きやすいそうなんです。
礼状を書かせるからと、お買い求めくださったかたもいらっしゃいました。」
店主が言う。

「いいですね、私にも男の子、いたのに。」
思わず涙ぐんでしまった。
恥ずかしいから、あわてて言った。
「いつまでも引きずってしまって。おかしいですよね。」

「なぜです?」
店主は真顔で聞いた。
「大切な人だから想うんですよ。
いいおかあさんじゃありませんか。
素敵なお母さんですよ。」

たそがれ時。
だれ?
あの子が友達に聞いている。