Novel(百物語)
02ten

手抜きの花見

「そろそろ大掃除ですね」
課長がうれしそうに言った。

「えっ、咲きましたか?」
「咲きましたよ、今朝見たら、ありましたよ。
毎年驚くんですが、八重はピンクなんですねえ。」
「じゃあ、今週ですか。さて、仕事にも気合いがはいりますな。」

キーボードの手を休め、私は課長と主任の顔を見た。
彼らからのお願いは、もうわかっていますよ、の笑顔をまず見せておく。
そうすれば、午前中の仕事はスムーズに動くのだ。

「おっ、芝ちゃん、気が利くねえ。予約頼むよ。」
「はい、実はもう、お話つけてあるんです。そろそろかなあと思いまして。
先日、お昼食べに行ったときに、仮予約しておきました。」

「さすが芝ちゃんだね。
じゃあ金曜日としとこうか。
去年と同じ感じでたのむよ。」
いつのまにか、社長が後ろにいた。
「はい。」
私は短く答えて、仕事に戻る。

新入社員が入る気配がないから、いつまでも私がこの小さな会社の新人だ。
冗談じゃない。
だれが芝ちゃんだ。
男たちはなぜ、女をすぐにちゃんづけで呼ぶんだろう。
呼ばれるたびにぞっとし、それを隠すために笑顔を作っているのが、この男どもにはわからないらしい。

桜の季節は憂鬱だ。
だって、うちの会社は、お花見のまえに大掃除が待っているのだから。

出入りの業者に話すと、みな一様に、
「なぜ?」
と、聞き返す。
そりゃあ、あたりまえだ。
お花見と大掃除の因果関係を、たちどころに解いて、なあるほどとひとり頷いている人がいたら、そのほうが怖い。

会社が入っているのは、古いビルだ。
五階建ての三階。
通りに面した窓まで、書類と商品がうず高くつまれ、何も見えない。
年に一回の大掃除が終わると、窓ガラスがこんなに大きかったかと驚く。
通りの並木が手に取るように眺められる。
意外にいい光景なのだ。

街路樹は八重桜。
事務所の電気を消すと、街灯の光、ぼんぼりのような八重桜。
すばらしい光景が現れる。

何事も合理的な社長が、このいい素材を見逃すはずがない。
暮れの掃除は、ない。
最後まで仕事、仕事。
年度末、決算の忙しい時期が終わると、今度はすぐに大掃除。
「八重桜を楽しむためなら、事務所の掃除も風流じゃあないか。
だいたい、さくらさくらとみんな騒ぐが、散り際の桜に心を寄せる人はすくないねえ。
八重桜なんて可哀想なもんだよ。
咲いた頃には、もう桜の季節は、終わりましたよってな具合だ。
あんなにかわいい八重ちゃんを見捨てるわけにはいかないね。」

いつの花見だったか忘れたが、隣で飲んでいた社長が弁舌をふるったことがあった。
共感できるところもないではなかったが、また八重ちゃんだ。
うんざりした。
結局、会社の花見と大掃除とを、うまく安上がりにセットしただけじゃないか。

ただ、この花見はらくだった。
場所取りのわずらわしさもなければ、寒さにふるえることもない。
大掃除のあとで、事務所がきれいになったという達成感もあったから、何となく気持ちもいいのだ。
わざわざ呼ぶわけではなかったが、偶然にその日にやってきた外注の人たちも仲間に加わることもあった。

食事の手配は私の仕事で、近所の店に頼む。
重箱に、野菜の煮染め、卵焼きをいれてもらう。
長屋の花見みたいに、と店主はたくあんもいれてくれる。

「やっぱり楽しんでいるんじゃありませんか。」
店主が言った。
私の愚痴を聞きながらも、仕事の手を休めない。
「こんなに会社思いの社員はいませんね。うらやましい会社ですね。」
「でも、どこが楽しんでいますか、すぐちゃんづけする人たちに。」
私は文句を言う。
言いながらもおかしくなる。
社員思いの社員なんて。
社長ならともかく。

ただ、毎年、桜に出会うのはうれしい。
料理を取りに行くとき、桜を見上げた。
今年も逢えたね。
そう思った、心から。
大掃除、私ひとり途中で抜けることができる。
外でもお花見ができるのだ。
自転車に乗る前に見上げ、乗った後も、桜並木を気持ちよく走る。

「好きでしょ、仕事?」
店主が聞いた。
私は頷いた。
私が八重ちゃんですって言ったら、みんなどんな顔するかなあ。
思わず笑い声がでた。