Novel(百物語)
02ten

あねき

これまで、食器に目を向けたことはあっただろうか。
いや、ない。
がつがつと食っていたわけではないが、食器というのは、食い物がのっている、それだけだった。
俺が皿に注意を向けるのは、回転寿司で精算するときだけだ。

春に、姉貴が死んだ。
年が離れていたから、お袋のようなものだった。

腹をすかせて、家に戻る。
小学生の俺が、
「姉ちゃん、腹ヘった。」
そういうと、
「ただいまくらい、言いなさい」
と、叱られた。
ただ、そうは言いながらも手は動かしていて、なにか食うものは出してくれた。

姉ちゃんと言ったら、食い物しか思い浮かばない。
結婚して遠くに住んでからは、ろくに会ったこともなかった。
両親の葬式や法事のときに、顔を見るくらいだ。
俺がろくに口をきいたこともない男の横に座って、姉ちゃんは楽しげにしゃべっている。
姉ちゃんが作った食い物じゃあないが、姉ちゃんと一緒に食っていると、なんだかまあまあの味に思えてくる。

「私は塗りが好きなのよ。」
法事の食事の席だった。
姉ちゃんが言ったことがあった。
吸い物椀を持ち上げ、
「あんた、わかる?」
と、聞かれた。
「わかるわけねえだろ」
そう返すと、
「そうだよねえ、あんたは」
と、言われた。
「ほしいのが、いくつかあるんだよね。」
姉ちゃんは真顔で言った。
「お椀とね、小さなお重。」
小さな声で言った。
「それだとね、おせちも入れられるけど、和菓子を入れると映えるのよね。」
「幸子は一生懸命貯金してるんですよ、お重を買うからって。」
気の弱そうな男は、俺にそういった。
「くだらねえもんなんか、やめとけよ。
これから何回、正月が迎えられるんだよ。
姉ちゃんだって、いい年だぜ。」
「そうよねえ、無駄かもね。
でもねえ、あんた、いいもんをさわってごらんよ。
それだけで幸せになるんだよ。」
「姉ちゃんはもう、しあわせじゃあないか。幸子だろ。」
姉貴は、俺に向かって笑ってくれた。
横で旦那までが笑ってる。
「なんか勘違いしてるな、こいつ。」
そう思ったが、珍しく、俺は黙っていた。
俺だって、弱い奴をいじめない日はある。

それから一年後に、いなくなるとは。
姉貴のおまけのようだった男は、おどおどしていて、はり倒したくなった。
「かかあが死んだくらいで、ふらふらするな。」

この店に入ったとき、すぐ後悔した。
女ばっかりじゃないか。
「たばこ、すえますか?」
珍しく丁寧に聞いた俺を、にらみつける女客もいた。
いやな店だ。
そう思った。
だが、出られなかった。
簡単な話だ。
便所を借りたかったのだ。
それを済ますまでは、女ひとりの気に入らない目つきなんぞ、どうでもよかった。
やっと一息入れ、席についた。
「コーヒーひとつ」
そう頼んだら、
「すみません、お茶しかないんです。」
そういわれた。
「ああ、それでいいです。」
「煙草、すみません、お断りしていて。
もっと広ければ、お席を分けられるんですが。」
店主は申し訳なさそうに言った。

俺だって、恐縮している人間に喧嘩を売ることはしない。
だまって、出された茶をのんだ。
うまかった。
目の前に、ごつい木の箱があった。
三段になっている。
俺の知っている色名で言えば、赤、だろうか。
上から見たら、梅の花のかたちをしている。
「原清さんの重箱です。いい塗りですね。」
店主が言った。

これが塗りか。
姉貴と話した、あの法事の席の椀とはぜんぜんちがう。

「どうぞ、さわってみてください。
なんだか幸せな気分になれますよ。」
店主の言葉が、俺には苦しかった。
「じゃあ、」
そういうと、俺は、その梅型の木箱をそっとさわった。
俺のがさつな手の中で、無骨な木箱が笑ったようだ。
塗りって言うと、あのてろっとした感じが、俺は嫌いだった。
おまえみたいな奴はお呼びじゃない、そう言われているようだった。
しかし、この塗りはちがう。
乱暴な俺が触れても、少しも気にせず、どうだ、よおく触ってみろ、と言っているようだ。
「くりぬいているんです、手間もかかっているんですがね、いい仕事ですね。」
店主の声に励まされ、ふたを開け、一段目を持ってみる。
ここに何を入れるんだろうか。

俺が買ってやればよかったんだ。
はっと気づいた。
俺の食い物を作ってくれた礼を言えたのに。
情けない奴は、旦那じゃなくて俺なんだ。