ブラシ屋
ブラシ屋と聞き、私が思い出したのは、学生時代のクラブの友人だ。
探検クラブという馬鹿馬鹿しい名前のわりには、結構まじめな同好会で、実際、テレビ局の下請けまでやっていた。
初めて全員が集まった新人歓迎会は、行きつけの居酒屋で行われた。
隣に座った小太りの男を、私はOBか先生と勘違いし、敬語を使って話していた。
自分と同じ新入生だとわかった後も、信じられなかった。
世界の不思議なんていうよりは、この男が十九歳だということのほうが、この世の不思議だ。
なにから話がすすんだかは忘れたが、家の職業になったとき、
「俺んちは刷毛屋というか筆屋なんだよ」と、彼は言った。
「いい着物があるとするだろう、その着物には、刺繍や染めやいろんな技が盛り込まれているんだ。
友禅って知ってる？
その職人さんが使う筆を、俺の親父が作っているんだよ。
筆の毛って、色んなものを使うんだ。
たぬき、テン、ミンク、外国からも輸入していて、家にはそんな毛がたくさんあって、ねずみが狙いに来るんだ。
だから、猫や犬がごろごろいて、おれや兄貴は猫や犬といっしょに育ったんだ。
子どもよりそっちのほうがえらいんだ。
だってうちの毛を守ってくれるんだから。」
男ばかりの七人兄弟。
そんなやつが、自分と同じ世代にいるなんて。
ビールの酔いも醒めて、私は彼の話に聞き入った。
気がついたら、飲んで話しているのは私たち二人だけだった。
どちらも酒に強いのだと、そのとき知った。
空は白み始め、筆屋の息子は、「洗うぞ」と、私に言った。
何のことか、わからなかった。
この店が、同好会の部室みたいのもので、居酒屋の主人は、学生に鍵を渡して、先に帰ってしまうらしい。
「奥に、先輩たちが寝ているよ」
と、彼は教えてくれた。
二人で、使った皿を洗った。
ビール会社のロゴ入りのコップは、どこにしまってよいかわからず、お盆に伏せておいた。
そして、「じゃあ」と言って別れた。
ふと、そんなことを思い出した。
あの、おっさんのような男は、どうしているだろうか。
お茶を飲みながら、その店の乳香と呼ばれているらしい物をそっと触ってみた。
不思議な香りがします。
店主に勧められ、鼻先に持っていった。
樹液の一種ときき、なんだか納得した。
木の中に入り込んだような、そんな香りがする。
乳香は、ハリネズミが載っている台の中に隠れている。
乳香より、私は、このハリネズミが好きだ。
松ぼっくりのかさで出来ている。
一見、松ぼっくりをそのまま使っているように見えるが、実はかさを一枚一枚丁寧にはがして、胴体部分に器用に張り合わせてある。
鼻先のとがり方、黒い目のかわいさ。
店主のお気に入りらしいが、私だって大好きだ。
「目の見えない方が作っているんです。」
そう聞いて驚いた。
デンマークのものらしい。
「ブラシ屋なんです、その店の商品は。
いくつか、かわいらしいものもありましてね。
つい手にとってしまったんです。」
「ブラシ屋か」思わず口にした。
「そう、小さな刷毛から、大きなデッキブラシまで、すごい種類でしたね。」
店主は思い出すような口ぶりでそういった。
「あれはすごかった。」
私はもういちど、ハリネズミに目をやる。
手のひらに載せてみる。
目をつぶって、そっと触ってみる。