Novel(百物語)
02ten

あの日の茶一

茶一という店がありました。
小さな小さな店でした。
一歩半で通り過ぎてしまうので、気づく人は決して多くはありません。
私があそこを知ったのは、いつのことだったか。
ずいぶんと前のことのように思われます。

そのころ、私は小さな出版プロダクションを経営していました。
実は、私の会社ではありません。
社長は私の知り合いの編集者でした。
彼が病気になり、入院を繰り返すようになると、弱小の出版社はすぐ危なくなります。
よい出版社が消えていくのを、私は見殺しには出来ませんでした。

頼まれるままに、私は作家との打ち合わせを代行し、本作りに力を注ぎました。
それまで気になっていた若い人にも会うようになりました。
気をつけて世間を見ていれば、良質の書き手は案外いるものです。

わたしは、そういう人を育てていくことに喜びを感じていました。
私には編集者、経営者しての能力があるようでした。
どうやっても作家になりたいと願っていた私には、皮肉なことでしたが。
いつのまにか、私から作家という経歴は消えていました。

茶一は彼の会社の近くにありました。
いつのことだったか、来客と話していると、近くに面白い店があると、彼が教えてれました。
なんどか足を運んでいるようでした。
「くせのある店よりは、チェーン店の個性のなさが俺は好きだよ」と、茶化して、その日は終わりました。
さほど面白い店ではないと、初めて出かけたときは思いました。
そのせいでほっとしました。
だから、足を運ぶようになったのかもしれません。
わたしも案外気負っていたのです。
ただ、気になったのは、あちこちに置かれているものでした。
設楽享良の白磁の器、原清の漆器。
作家の名前が、いつの間にか、頭の中に入っていきます。
松ぼっくりで作ってあるハリネズミ、つづれ帯、着物。これらは売り物なのか、展示物なのかよくわかりません。
その空間になじんで、そこにある、そういうしかないように思いました。
今度来たときは、あれをゆっくり見よう、そう思うのでした。

私は設楽享良の白磁が好きでした。
高台のついている茶椀に、酒を入れてみたい、そう思いました。
もちろん、店では黙って煎茶だけで我慢しました。
自宅用に一つ買い、時々酒を入れて楽しみました。
満月の夜に、窓辺に椅子を置き、月見酒をしたのは、茶一に行って一年は経っていたでしょうか。
空に浮かぶ満月のように、白磁の茶碗はきりりと引き締まり、しかし、月の中のウサギを思い起こすかのように、やわらかい優しさがありました。
私はひとり、月と酒を酌み交わしたのです。
誰にそのことを話したのでしょう。
店主に話したのでしょうか、はっきりしません。

私は月見酒を飲んだ翌日、茶一に行き、煎茶を飲んだだけかもしれません。
私の中でそんな想像をしただけかもしれないのです。
狐に化かされた人間のようですが、それを私は懐かしく思い出すのです。

社を任された知人は病状が悪化していきました。
苦しいはずなのに、彼は私を気遣ってくれるのでした。
病院からの電話は旅先からかと思われるほど、明るいものでした。
会社の業績の上がっていることを彼にほめられ、どうせ俺は物書きとしては食えないんだよと笑いあい、そのあと、必死に仕事をして、茶一に向かうのでした。
茶一で煎茶を飲んでいると、苦しさから逃れられたのです。

設楽の器を私はすこしづつ買い求めるようになりました。