02ten
Compile

沖永良部島のテッポウユリ栽培

鹿児島県の甑島と沖永良部島は、ユリと深い関係がある場所です。
甑島はカノコユリの自生地です。
カノコユリの日本の自生は、甑島を中心とした西九州の海岸地帯と四国山地のみです。
テッポウユリは台湾と奄美・沖縄諸島が自生地で、沖永良部島もそのひとつです。
ここでは、沖永良部島のテッポウユリの関わりについて、主に栽培史の観点から記します。

沖永良部島は、奄美諸島に属する、隆起サンゴ礁の島です。
面積は93.67平方キロメートル、人口は2015年国勢調査によると12,996人です。
島の主要産業は農業です。
明治31年(1898)、沖永良部島喜美留沖でイギリス船が難破した事件がありました。
島民に救助されたアイザック・バンディングが、島の野生の百合を見つけ、栽培を奨励したとの伝承があります。
テッポウユリの一大産地となった沖永良部島では、えらぶユリ栽培の始まりを明治32年(1899)と定め、
平成10年(1998)には栽培100周年の記念事業が行なわれました。
えらぶユリを詳しく知ることのできるerabuyuri.comというサイトもあります。

ユリに関して、ほとんど忘れられている事実があります。
明治時代から第二次世界大戦前の昭和期までの日本は、ユリ根(百合の球根)の輸出国でした。
戦前の輸出花卉のほとんどがユリ球根で、大正6年には農商務省から重要輸出品の指定を受けています。
ユリ根は日本の外貨獲得に大きな役割を果たした園芸作物でした。

欧米に比べると、かつての日本ではユリに対する関心はさほど強くありませんでした。
日本には15種類のユリが自生していますが、栽培までされていたのは、わずか2種類です。
球根を食用とするオニユリと観賞用のスカシユリです。
江戸時代に来日した医師シーボルトや植物学者ツンベルクらによって、日本のユリは評価されたともいえます。
彼らは、日本のユリの美しさを欧米に紹介しました。
明治に入り、開港した港を経由して貿易が可能になると、欧米諸国は種類が多く美しい日本のユリを求めるようになりました。
明治5年(1872)の『ザ・ファー・イースト』誌には日本のユリの写真が掲載され、
「豊かなユリ(Prolific Lily)」と記されています。
明治6年(1873)のウイーン万国博覧会は、明治政府が初めて公式に参加したもので、日本のユリが出品されています。
このことによって、欧米での日本のユリ人気がいっそう高まったのではないかと推測可能です。

欧米では、ユリはキリスト教と深い結びつきがあります。
絵画、特に宗教画でキリストの母マリアを描いたものには、必ずユリの花が描かれています。
聖母マリアに受胎告知を行なう天使ガブリエルが手にするのは、ユリの花です。
白いユリは純潔の花として描かれ、聖母マリアを象徴した神聖な花とみなされています。
イースター(復活祭)やクリスマスをはじめとして、冠婚葬祭にも欠かせません。
マドンナリリー(Madonna Lily)と呼ばれる白い花は、特にキリスト教の関連で扱われたユリでした。
ところが、19世紀後半に米国のマドンナリリーの球根産地が、病虫害の被害を受け、壊滅的状況になりました。
その代替物として、白く美しい日本のテッポウユリが注目されたのでした。
米国では「永良部百合(Erabu Lily)」として、沖永良部島のユリはマドンナリリーを凌ぐ人気になっていきます。
ちなみに、テッポウユリが欧米では宗教的な花として扱われるのに対し、カノコユリは庭植えや切り花として愛好されました。

明治末期にユリ根はどのくらい輸出されていたかがわかる資料があります。
幕末に結んだ不平等条約を撤廃し、関税自主権を行使するために調査した資料です。
「内国産百合根累年輸出額表」を見ると、
明治31年に輸出されたユリ根は510万個548個です。
それが、10年後の明治41年には1286万9605個に増加しています。
100個平均単価も3000円から4000円を超えています。
輸出先はほとんどが欧米諸国です。
中でも、イギリスとアメリカ合衆国(表の国名を使用)が抜きんでています。
横浜におけるテッポウユリのユリ根は、1本あたり2円50銭~5円の値がついています。

ユリ根は検疫が必要な植物です。
ユリ根だけでなく、周囲の土にも病害虫の有無を調査する必要がありました。
日本では大正3年(1914)に輸出入植物取締法が公布され、植物検査所が新設されました。
また、米国では大正8年に検疫法が改正され、輸出国官憲による検査証明書が必要となりました。
ユリ根に関していえば、ユリ根1個1個について病害虫がないかを検査し、梱包用の土壌も消毒する必要がありました。
明治41年に約1287万個のユリ根が輸出されている状況です。
そのような状況が影響したためか、大正9年には、植物検査所の検査官補の人数が増員されています。

沖永良部島に自生していただけのテッポウユリに商品価値を見出したのは、
明治31年(1998)年に乗っていた船が難破し、同島の喜美留海岸に漂着したアイザック・バンディングです。
島の人々に救助された彼は、白く美しいテッポウユリが島で咲いていることに気づきます。
ユリ根の買い付けに必ず来島することを約束し、バンディングは野生ユリ根の採集を島民に依頼しました。
イングランド生まれのバンディングは、当時横浜で球根輸出商社を開業しており、主なな商品はユリ根でした。
マドンナリリーの病害虫による打撃で、それに代わる白く美しいユリの探索は急務でした。
彼はプラントハンターでもありました。
プラントハンターとは未知の植物を探し出し、持ち帰ることを目的に採集する植物の専門家を言います。
当時、イギリスやオランダのプラントハンターは、開港していた中国(清)には足跡を残しています。
中国の都市周辺の種子や苗木はすでに購入し、雲南省や四川省の奥地を注目していました。
琉球や奄美諸島もプラントハンターにとっては未開拓の地であり、多くの船が沿岸を航行していました。
当時、バンディングが乗った船だけが奄美諸島周辺海域を航行していたわけではありませんでした。

それまで関心の外にあったユリが換金作物となることは、沖永良部島の人間にとっても衝撃的でした。
バンディングが価値を見出したテッポウユリは、沖永良部島ではそれまでは観賞用でも食用でもなく、
ただ、自生しているだけの花でした。
テッポウユリは台湾と奄美・沖縄諸島が自生地で、沖永良部島にもありました。
その上、沖永良部島の自生数は他の島よりも多くありません。
テッポウユリは多年生宿根草で、厳しい環境でも成長します。
海岸の荒地で強風が吹き付け、潮を浴びるような場所でも育ちます。
アダン低木林の植生地や、内陸のハチジョウススキ・チガヤが植生する原野にも自生します。
日本ではユリ根は食用として、特に飢饉の際の食物として利用されてきましたが、テッポウユリは苦みが強く、
水に晒し、澱粉としての利用が一般的でした。
奄美大島や徳之島では、テッポウユリから上質の澱粉をとり、救荒食として利用した文献があるのに対し、
沖永良部島では食用の記述がありません。
理由として、沖永良部島にはテッポウユリの自生が少ない上に、ソテツが救荒食の役割を果たしたためと推測されます。

沖永良部島のユリ根の出荷は、一般的には明治37年に和泊の市来崎甚兵衛が野生ユリ根を「永良部百合」として
出荷したと言われています。
ただ、バンディングの漂着を考慮しても、それ以前に出荷が行われた可能性もあります。
マドンナリリーの代替品としてのテッポウユリの栽培化に関しては、関東が先発しています。
関東産のユリ根は北部産と呼ばれていました。
横浜に近い神奈川県がまず、産地となり、次に埼玉県へと移動し、その後、群馬県や栃木県でも栽培されています。
産地が移動するのは理由があり、ユリは同じ畑で植え続けると、病害虫が増えたり、生育や収量が劣る傾向があります。
一方、沖永良部島をはじめとした琉球や奄美列島のユリ根は南部産と呼ばれました。
当時のユリ根は輸出目的として栽培されており、それも専らクリスマスやイースター用でした。
そのため、温暖な環境で北部産より2~3ヶ月早く出荷でき、欧米諸国の需要に余裕をもって輸出できる南部産のユリ根は
優位性がありました。

沖永良部島にはもともと野生ユリが少なく、品種改良を目指す必要がありました。
明治時代、ユリ根栽培に最初に熱心に取り組んだのは、北部の和泊でした。
和泊の国頭(くにがみ)で明治37年には野生種から「根太(ねぶた)」という変種が選抜されています。
国頭(くにがみ)は、農作物がしばしば塩害の被害を受けていた地域でした。
海食崖の割れ目から、島でフーチャと呼ばれる海水が噴き出す地域環境が被害の原因でした。
換金作物となりうるかもしれないテッポウユリは、もともと塩害にも強いため、人々の品種改良への熱意を後押ししました。
「根太(ねぶた)」は種子繁殖により作られてた変種です。
開花後のユリをそのままにしておくと種子が付きますが、その種子で殖やしたものです。

明治38年には、国頭の隣の喜美留で「アンゴー」という変種が野生種から選抜されました。
これは木子繁殖によってできたものです。
木子(きご)とは、球根のすぐ上の茎にできる小さな球根のようなものを言います。
木子繁殖法の開発は和泊の篤農家が肥培の経験を積んだ結果ですが、それと同時に、
島に来た商社からの情報も関わっていると考えられています。
「アンゴー」は非常に優れた変種で、これが島内に普及し、ユリ根の栽培農家を増やしました。
和泊では、木子繁殖によって殖えたユリ根を希望する人に分配し、ユリ根栽培が周辺に拡がっていきました。
もともと沖永良部島では、湧水地の水を中心に農村が形成された結果、地域や血縁関係の紐帯が強い社会でした。
このことが、ユリ根栽培の伝播や普及に役立ちました。
また、品質のよいユリ根を求める熱意が島民に強くあることも大きく影響しています。
「アンゴー」以降は、ユリ根輸出商社も取引のみならず、栽培の技術指導も関わっていたとみられます。

大正時代に入ると、ユリ根は沖永良部島ではサツマイモに次いで、重要な換金作物の地位を獲得しました。
繁殖法としては、木子繁殖が本格的に行われました。
他には、茎芽繁殖も試みられています。
大正時代には、西部の知名でも熱心な農家が現れています。
変種として、「全黒(ぜんくろ)」「余多黒(あまたぐろ)」「屋者黒(やじゃぐろ)」が選抜されています。
このように明治後期から大正期にかけて、島では様々な栽培法や品種改良方法が熱心に試みられてきました。

昭和時代になると、鱗片(りんぺん)繁殖が主流となります。
ユリ・玉ねぎ・スイセンなどの球根は鱗茎(りんけい)と言います。
地下茎の一種で、短い茎の周囲に生じた多数の葉が養分を貯えて多肉となり、球形・卵形になったものです。
ユリの球根はうろこ状の鱗片(りんぺん)で構成されています。
鱗片を1枚ずつはがし、畑に植えていく方法で、葉挿しの一種といえます。
木子繁殖よりも1つの親球から多くの球根を獲得できる利点があります。
種から増やす実生繁殖(種子繁殖)では、同じ品種でも生長後の性質、たとえば花の色や形、
草丈や姿に微妙な違いが生じやすくなります。
個体ごとのばらつきがあるというのは、園芸上は短所になるため、鱗片繁殖を含めた栄養体繁殖は
親球と同じ性質を持つ球を簡単に早く育てることができる好適な方法です。
しかし、親球と全く同じ形質を持つために、親球が病気になったり、病気の因子をもっていると
いっせいに病害虫に侵される傾向が高くなるリスクがあります。
そのため、当時は、鱗片をボルドー液に浸して消毒するという方法も使われていました。
ボルドー液とは、硫酸銅と消石灰の混合溶液で塩基性硫酸銅カルシウムを主成分とする農薬です。
殺菌剤として使われます。
野生種や栽培種から優良品種を選抜することは、熱心な農家の手で進められていきましたが、
品種間の交配によるものではなく、あくまで優良な品種を発見するもので、限界がありました。
優良品種が選抜者の地域以外には普及していないことも多く、「永良部百合」として一括されてしまう状況でした。
ただ、開墾によってユリ根の畑は増大し、沖永良部島のユリ根の生産は拡大していきました。

明治以降、第二次世界大戦前の日本におけるユリ根の生産数量は1,000~8,000万球の間を上下しています。
輸出数量は、第一次世界大戦で輸出が一時中断したことをのぞけば、ほぼ生産数量と呼応します。
つまり、第二次世界大戦前は、国内での需要はわずかの量にすぎず、生産量と輸出量の差は、
病害虫や規格外の球根数と、過剰生産で破棄された球根数の和になります。
生産数量に波があるのは、ユリ根が投機的な性格が強いという理由があります。
それでも、戦前の輸出花卉のほとんどをユリ根が占め、重要輸出品であったことには間違いありません。

第二次世界大戦により、再びユリ根の輸出は中断します。
球根は廃棄され、もともとの日本流の使途としての食用のユリ根として生産されました。
沖永良部島でも、ユリ根の畑は甘藷畑に変更されていましたが、ひそかに種球を蓄えておく農家もありました。
第二次世界大戦が終結しても、奄美群島は米軍統治下におかれ、日本の領土ではありませんでした。
そのような状況下でも沖永良部島ではすぐにユリ根栽培が再開し、昭和24年には輸出が再開されました。
同昭和24年には、永良部ユリ根出荷組合が結成され、生産者組織の強化がなされました。

昭和26年は、ユリ根栽培に大きな転機がありました。
商社によって内外の品種が移入され、これらの品種の中から「ジョージア」(アメリカ産)、「ひのもと」(日本産)が定着
していきました。
野生種から選抜した優良種やや商社から導入された品種等、それまで長い間使われてきた「アンゴー」等の在来品種が
姿を消しました。
ユリ根農家は、これまでの在来品種の改良ではなく、移入品種を積極的に受け入れ、特定品種を大量生産する
方向へとかじを切ったのでした。
繁殖方法も鱗片繁殖に統一されました。
昭和28年に奄美群島は日本へ復帰しました。
昭和37年には指定商社の代金全面供託制度を実施しました。
予約栽培を行うことにより、ユリ根生産の安定が図られたのでした。

ユリは忌地性といい、同じ土壌を嫌う傾向がありますが、沖永良部島では既に畑となっているところでの
輪作体系を工夫したり、新しい栽培技術を開発・導入し集約化を図りました。
その一方で、ドリーネ地帯の原野の開墾等、新たな作付地を開拓することにも力を注ぎました。
あらたにユリ根の開墾を積極的に行う場所がすでにない場合は、他地域へ畑を借りてユリ根を栽培する「出作り」も
行なっています。
昭和30年代から40年代にかけて、栽培技術の向上、ユリ根農家の増加と国内外の需要があいまって、
沖永良部は日本一のユリ根産地の地位を築いていきました。

ただ、特に輸出面において、問題も増え始めていました。
ひとつには、急激なユリ根増産にともない、ウィルス病対策といった課題が生まれてきました。
輸出するユリ根は、国の検疫を受ける必要がありますが、合格しないユリ根も増え、鹿児島県も品質改善を図りました。
また、戦後、固定相場制の下で日本の輸出産業は発達してきましたが、
昭和46年のニクソンショック等により、円の大幅な切り上げが行われ、その後、変動為替相場制へと移行します。
第2次世界大戦による輸出の中断は、大きな打撃でした。
日本のユリ根の輸出が停止されているあいだに、アメリカ合衆国やオランダではユリ根の品種改良が進み、
その結果、自国産のテッポウユリを栽培し、供給する体制が進んでいました。
それでも、昭和40年から昭和50年にかけて生産数は増大し、市場のニーズに対応できる産地体制の強化を品質改善とともに
行なっていました。

最大の打撃は、昭和52年9月9日に沖永良部島を襲った最強の台風9号(沖永良部台風)による大被害です。
沖永良部では、ユリは9月に植え付け、6月に収穫するサイクルのため、台風通過後に、球根を植え付ける準備をしていました。
台風9号は907mbと地上観測で最低の気圧を記録し、人家、倉庫等全ての建造物が被害を受け、甚大な被害をもたらしました。
台風通過後、農家は、植え付け作業を優先させましたが、病害虫の発生が多発し、
翌年の植物防疫所の栽培地検査において、不合格が続出しました。
その上、出荷されたユリ根においても、切り花産地において、ウィルス病を多発させ、
切り花農家に多大な損失を生じさせる結果となってしまいました。
特に輸出先のオランダからは、厳しい報告があり、品質改善に取り組みましたが、輸出に関しては厳しい状況になっていきました。
その後、沖永良部島ではユリ根の栽培ももちろん行われていますが、球根栽培よりも収益性の高い切り花に転換が進んでいきます。
オランダから輸入された新しい交配種のユリが人気を博し、日本の輸入緩和策により、流入が増加した要因もあります。
フリージアやグラジオラスの球根栽培から始まり、現在はスプレーギクなどの小菊類の生花生産へと移行しています。
冷蔵設備をもったコンテナ船の導入や空輸等で、沖永良部島はキク栽培の重要な産地となっています。

この文章は、以下の資料をもとに構成したものです。
関西大学文化交渉学教育研究拠点の野間晴雄教授
1978年 人文地理学会会報「人文地理」第30巻第3号「野生ユリの栽培化から球根商品化への過程」
2009年 関西大学文化交渉学教育研究拠点 東アジア文化交渉研究 別冊4 「東洋の植物を求めて」
その他として
2016年 富山大学紀要 富山大経済論集 第61巻第3号 新里泰孝「世界の花卉球根産業」
2008年 横浜開港資料館「開港のひろば」第102号 「横浜のユリ根輸出とランの輸入」
国立公文書館 アジア歴史資料センター 「ユリ根の輸出」
2014年 農林水産省 花き振興セミナー資料「花卉の現状について」




















経済・産業