小学校に残る歴史的建造物
1.西之表市立榕城小学校
明治9年の開校です。
学校は、種子島当主の居、赤尾木城跡にあります。
珊瑚石の石垣が今も残っています。
校庭には、樹齢450年を超える巨木の榕(アコウ)があり、大きな枝をひろげて日陰を作っています。
(榕城小学校HPより)
2.姶良市立重富小学校
明治4年の開校です。
(明治4年に平松・脇元・上水流の3小学校。
明治21年平松・脇元・触田の3小学校を合併し、現在地に「平松小学校」が設立されました。
「平松尋常小学校」として「重富高等小学校」を同一校舎に合併)
平松城跡に学校はあります。
石垣は未だに残っており、野面積みで、総延長が548・3mあります。
正門の門柱は、旧鹿児島県庁のものを大正14~15年にかけて移設したものです。
平松城は16世紀に、島津義弘(17代)が築いた城です。
平安時代末期、重富は蒲生に属していました。
島津貴久(15代)の率いる島津勢が蒲生方の支城・岩剣城を攻略し、岩剣城を落城させました。
貴久の三男義弘(17代)は落城後の山城、岩剣城を任され、その後、山の麓に平松城を築きました。
平松城が重富島津家と関わるのは、江戸時代、18世紀になってからです。
元文2年(1737)、藩主島津継豊は、弟忠紀に越前(重富)島津家を復興させました。
帖佐郷の脇元・平松・船津・春花の四村と吉田郷一部の触田村と併せ、1万石を与え、重富郷としました。
重富という地名は、越前国(福井県)に関連があります。
鎌倉時代、島津忠綱(薩摩守護になった忠久の二男)が越前国(福井県)の守護代として治めた領地に由来するそうです。
重富島津氏は、忠紀から21代珍彦(うずひこ)まで、明治維新・廃藩置県に至る約130年ほど続きました。
その間、平松城に館を、邸を鹿児島城下・鼓川、別荘を鶴江崎の重富荘に構えました。
(重富小学校HPより)
3.出水市立出水小学校
明治5年の創立です。
学校のある場所は、城山の麓で、出水武家屋敷群内にあります。
ここには、薩摩藩時代に肥後との国境に置かれた最大級の外城があったそうです。
学校の校門は、御仮屋門(おかりやもん)と呼ばれる武家門で、島津義弘(17代)が居城の帖佐の城の門を出水に移したものです。
島津義弘(17代)の御仮屋門の移築は、豊臣秀吉の朝鮮戦争と関連しています。
出水の地は秀吉の直轄領となりましたが、日本軍の引き上げにより、再び島津氏に返還されました。
慶長4年(1599年)あたりのことです。
島津義弘・家久父子はともに朝鮮に出陣していましたが、伏見に凱旋し、薩摩帰国は許されませんでした。
義弘は出水へ隠居して北辺の守りに任じたいと思い、門の移築を命じたということです。
義弘の移住は実現しませんでしたが、以後、この地に「御仮屋」がおかれ、それが「御仮屋門」として現在に至っているとのことです。
(出水小学校HPより)
4.霧島市立国分小学校
明治6年の創立です。
国分小学校は舞鶴城跡にあります。
舞鶴城は、17世紀初頭、島津義久(16代)が居住しました。
1611年(慶長16年)に79歳で亡くなるまでの7年間過ごしました。
学校内にある朱門(あかもん)も有名です。
朱門は幅7m、高さが最大3mあります。
現在の朱門(あかもん)は昭和50年(1975年)に復元されたものです。
市の指定文化財のため、本来は開きません。
平成26年、児童に歴史に関心をもってもらいたいと学校側が交渉し、毎月第一水曜日、登校時のみ開門しています。
児童たちは朱門(あかもん)から登校しています。
(南日本新聞 平成26年5月17日より)
5.日置市立鶴丸小学校
明治3年の創立です。
明治5年に学制が発布され、鹿児島本学に属し、外城第27郷校と称しました。
明治9年に市来小学校となりました。
明治11年に鶴丸小学校となり、大日寺伽藍跡に開校しました。
鶴丸という名前は、学校の後ろにあった鶴丸城に由来します。
鶴丸城は鹿児島を代表する中世城郭です。
1337年、市来氏の御家人であった市来時家と、島津貞久の子川上氏がこの城で合戦したと伝えられています。
15世紀頃には守護島津氏領となりましたが、城は使用されなくなり、中世の山城の役目を終えました。
16世紀半ばに、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルも、この城を訪れました。
1550年6月に、鹿児島から平戸へ向かう途中に当城に滞在したと伝えられています。
頂上の屋形跡と思われる所には、礎石が見受けられ、西側には土塁も残っています。
小学校の石垣は、後ろに鶴丸城があるために、城の石垣と思われていますが、そうではありません。
鶴丸城は山城で、石垣はありません。
小学校の石垣は、明治27年に新築したことがわかっています。
小学校は大日寺跡にありますが、、校門近くにある大銀杏は当時からのものと言われています。
また、東市来幼稚園の裏庭にある仁王像は寺門にあったものと伝えられています。
(鶴丸小学校HP、東市来町誌、東市来町郷土史より)
6.さつま町立盈進小学校
盈進小学校は、その名前を盈進館から受け継いでいます。
江戸時代末期、安政5年(1858年)に、宮之城島津家の島津久治(15代)が文武館を建てました。
文館(勉強をする所)を盈進館(えいしんかん)とし、武館(体を鍛える所)を厳翼館(げんよくかん)と名付けました。
その盈進館が今の盈進小学校となりました。
小学校の校庭にある栴檀(せんだん)と楠(くす)の木は、盈進館が建てられたころからのものと言われています。
盈進とは、中国の「孟子」の「源泉混混不舎晝夜 盈科而後放乎四海」の中からとったものです。
「源泉は混混として昼夜をおかず 料(あな)に盈(み)ちて而(しか)る後に進み四海に放(いた)る」
意は、「水はその源からこんこんと湧き出て、昼も夜も休む時がない。その流れは、窪みがあればまずその穴を盈たしたのち、初めて溢れ出して四海に進む」
校章は桑の葉が「盈」の字を囲み、下に三つの蚕の繭があります。
宮之城は、40年ほど前までは養蚕の盛んな所でした。
盈進小の古い校歌には、「果てしも知らぬ桑畑に蚕の富や限りなし」と歌われています。
盈進小学校HP
(盈進小学校HPより)
6.姶良市立柁城(かじき)小学校
18世紀後半、島津久微は郷校「毓英館」(いくえいかん)を創設しました。
天明4年(1784)のことです。
(毓はイクと読み、養い育てる、繁殖させる、生みだす。育と同義 筆者註)
郷校「毓英館」が明治9年「柁城小学校」と改称されました。
柁城(かじき)という地名には、古い歴史があります。
日本書紀には、いざなぎのみこと・いざなみのみことが多くの神々を産んだ中に、蛭子を産み、三年経っても足が立たなかったとあります。
その蛭子はあめのいわくすふね(丈夫な樟の船)に乗せて、風のまにまに放流したと書いてあります。
また、古事記には「水蛭子(ひるこ)を葦舟に入れて流し去てき(ながしうてき)」とあります。
この、蛭子が乗せられた船のかじ(柁)が村里に流れ着き、うっそうたる巨木に生い茂り、その村里を柁木(かじき)と呼んだと伝えられています。
現在は「加治木」と書きます。
島津義弘(17代)は、17世紀初頭、この地に屋形を築き、「柁城」と呼びました。
慶長8年(1603年)から造営がはじまり、落成は慶長12年(1607年)と伝えられています。
(柁城小学校HP参考)
7. 鹿屋市立串良小学校
明治5年、串良地頭仮屋跡に創立しました。
廃藩置県の実施により「串良郷」として都城県に属していましたので、都城県第7郷校と称しました。
明治6年、「串良郷がに鹿児島県に編入されたため、鹿児島県第50郷校として改称しました。
昭和33年、鶴亀城跡に移転し、現在に至っています。
(串良小学校HPより)
8.鹿児島市立大龍小学校
明治17年の開校です。
小学校は、島津氏ゆかりの地にあります。
16世紀末、薩摩・大隅・日向を統一した島津氏15代貴久、16代義久、18代家久が内城としたところです。
城山城が建立され、移転したため、その後は大龍寺という由緒ある寺になり、250年続きました。
明治の廃仏毀釈で廃寺となり,その跡地に大龍の名をいただいた学校です。
(大龍小学校より)
10.薩摩川内市立湯田小学校
平成20年に創立130年を迎えましたが、残念ながら現在は廃校となりました。
藩政末期に宮司坊(お寺)において寺小屋教育が行われ、その後、湯田小学校として開校しました。
宮司坊が廃仏毀釈で廃寺になったとき、壊されずにすんだ手洗鉢(ちょうずばち)が学校に残っています。
大正11年頃まで、小学校の手洗鉢として使用されていました。
蓮の紋様がかすかにわかり、宮司坊の名残をとどめています。
湯田小学校は、その後、菅原神社跡に移転しました。
菅原神社の土台石も、小学校に保存されていました。
毒虫や白蟻を避けるため、柱の周囲に水をためるような珍しい形式です。
学問の神様、菅原道真公にまつわる伝説は、各地にあります。
湯田校区にも、道真公が船で上陸した時、船をつないだと言われる「つなぎ石」や腰かけたと言われる「腰かけ石」などがあります。
(湯田小学校HPより)
11. 南さつま市立坊津学園小学校
平成22年4月、近隣の小学校4校と中学校2校が再編され、小中一貫校である坊津学園が誕生しました。
坊津学園小学校は、6世紀末に建立された真言宗の寺院「一乗院」跡地にありました。
一乗院は大変栄えた寺院でしたが、明治初めの廃仏毀釈により、破壊されました。
校内には、一乗院基礎石と刻まれた三つの石があります。
非常に重く、大きな石です。
かつて、坊津は日本における三大主要港・日本三津に数えられ、海外貿易の拠点となっていました。
大陸や南方からの船が盛んに出入りし、珍しい品々が取引され、大きな富を生みました。
外来文化の渡来地として、大いに栄えました。
秋目地区の入り江は唐の高僧「鑑真」上陸の地でもあります。
なお、平成25年に、坊津学園は施設一体型小中一貫校として新校舎に移転しました。
(「教育情報かごしま」V0l.6 平成24年2月発行より)