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歴史・文化

島津のお殿様の豆知識

島津氏
平安末期以来の雄族で、中世南九州の守護大名、のちの薩摩藩主
鎌倉時代、源頼朝の御家人として、島津庄地頭、薩摩国守護を世襲。
室町時代には、薩摩・大隅・日向3国の守護となりました。
戦国時代、貴久のとき、薩摩・大隅の2国を統一して戦国大名としての地歩を固め、鹿児島に居城。
その子義久はさらに九州を平定し、大友・竜造寺氏を圧倒しました。
1587(天正15)年、豊臣秀吉に降伏、薩摩・大隅・日向の旧領を安堵された。
江戸時代には77万石の外様大名。
後期に重豪(しげひで)、幕末斉彬(なりあきら)・久光らが出、指導勢力となりました。
鹿児島藩主は家久から始まり、忠義までの12代までですが、島津忠久から現在の島津修久氏までは33代。

主なお殿様を紹介します

島津忠久(ただひさ)
鎌倉時代の武将で、島津氏初代。
源頼朝の御家人として、島津庄地頭、薩摩国守護を世襲しました。
薩摩に入国したかどうかは不明です。

島津貴久(たかひさ) 1514~71 戦国時代の武将
同族争いをしずめて薩摩・大隅2国の統一を完成、島津氏繁栄の礎を固めました。
島津家中興の祖。
1549年にはザビエルにキリスト教布教を許可しました。

島津義久(よしひさ)1533~1611 安土桃山~江戸初期の武将
島津貴久の長男。
南九州の薩摩・大隅・日向で勢力を固め、豊後(大分県)の大友氏、肥前(佐賀・長崎県)の竜造寺氏・有馬氏、肥後(熊本県)の阿蘇氏・相良氏などを降し、1586年までに全九州を平定しました。
翌年豊臣秀吉に降伏しました。

島津義弘(よしひろ)1535~1619 安土桃山~江戸初期の武将・外様大名
島津貴久の二男。
兄の義久とともに、ほとんど九州全域に勢力を拡大しました。
1587年豊臣秀吉に降ったのち、義久に代わり島津家当主となりました。
文禄・慶長の役に活躍し、関ヶ原の戦いでは西軍に属しましたが、敗北後も所領を安堵されました。 

島津家久(いえひさ)1578~1638 安土桃山~江戸初期の武将。薩摩藩主
島津義弘の三男。義久の養子。
文禄・慶長の役に従軍し、功を立てました。
のち琉球を攻めて支配下におきます。
初代鹿児島藩主。

島津重豪(しげひで)1745~1833 江戸後期の薩摩藩主
11歳で藩主となりました。
藩校造士館に蘭学を導入して積極的開明策を採用。
演武館を設立して文武を奨励しました。
医学院、薬草園を建てて医学を広め、また明時館を創建して天文暦教を研究しました。
治世後半に藩財政の窮乏を招きましたが、藩政改革に調所広郷(ずしょひろさと)を登用し殖産興業を推進しました。
娘は徳川家斉の正室。

島津斉彬(なりあきら)1809~58 江戸末期の薩摩藩主
1851年襲封。
藩政改革につとめ、殖産興業・海防強化を推進しました。
反射炉や洋式紡績工場を設置し、火薬・ガラス・電信・ガス灯などを導入して集成館・開物館を設置しました。
将軍継嗣問題では一橋派に属し、雄藩連合の中核となりました。

島津久光(ひさみつ)1817~87 幕末の政治家
薩摩藩主斉彬の異母弟。
父斉興の死後、斉彬との御家騒動で敗れましたが、斉彬死後、遺命によって子の忠義が藩主となった後は国父として実権を握りました。
1862年兵を率いて上京し、寺田屋騒動で薩摩藩尊攘派を制圧。
勅使大原重徳(しげとみ)を奉じて江戸に下り幕政改革に参与するなど、64年まで公武合体派の中心として活動しました。
江戸からの帰国の途、生麦事件が起こり、薩英戦争の原因となりました。
新政権発足後、征韓論での分裂を抑えるため一時左大臣となりましたが、まもなく辞任。

島津忠義(ただよし)1840~97 幕末の薩摩藩主
島津久光の長男。
藩主斉彬の死後、父と共に藩政改革に着手し、軍備を充実、藩の近代化につとめました。
慶応3年(1867)倒幕の密勅を受けて京に上り、王政復古に尽くしました。
維新後、版籍奉還を奉請。
のち貴族院議員。国葬。


旺文社 日本史事典・日本国語大辞典等より)