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歴史・文化


南洲墓地の西郷隆盛の首は本物

msn産経ニュース(2014年3月7日)によりますと、鹿児島市の南洲墓地に眠る、西郷隆盛の首は本物であることが明らかになりました。
2月18日に文春新書から刊行された「西郷隆盛の首を発見した男」に詳細があります。
西南戦争当時の官軍の将校、千田登文(せんだのりふみ)が西郷隆盛の首を発見したと言われてきましたが、その当時の詳細な事実を記録した文書が、千田家から発見されました。
これにより、一部に残っていた西郷隆盛の首の未発見説、偽物説に終止符が打たれ、官軍の指揮官だった山県有朋らによって確認され、胴体とともに鹿児島市の西郷南洲墓地に埋葬されたという史実が、改めて検証されました。

西南戦争当時の官軍の将校、千田登文(せんだのりふみ)が死の前年までしたためていた「履歴書」が、金沢市の千田家に保管されていました。
「履歴書」は綴じられた和紙、約100ページに書かれたものです。
内容は、千田登文自身の生い立ち、戊辰戦争の様子、西南戦争における城山での西郷軍の幹部の最後、西郷隆盛の首発見のいきさつ、さらには日清戦争、日露戦争の状況などが書かれています。
この中に、西郷隆盛の首を発見した当時のことが、きわめて具体的に書かれています。
千田登文(せんだのりふみ)は弘化4(1847)年、加賀藩士の子として生まれました。
戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争に従軍し、昭和4年に81歳で死去しています。

「履歴書」の内容の前に、西郷隆盛の首の未発見説、偽物説が起きた経緯について記しておきましょう。
西郷隆盛の首が本物かどうかを疑わせる事件が、昭和50年(1975)年に鹿児島で起きました。
昭和50年9月20日付の夕刊に「西郷どんの首?」という記事が載りました。
昭和50年5月、鹿児島市の松平墓地(鹿児島市吉野町実方)を改葬中に、鉄鍋に入っている頭骨を発見したのがきっかけでした。
松平墓地は西郷隆盛の介錯を行った別府晋介の生誕地に近く、近くには西南戦争で戦死した士族の墓もあります。
昭和51年11月11日には、西日本新聞が再び、記事を掲載しました。
内容は似ていますが、鑑定結果が追加されています。年齢50歳くらいの屈強な男性の者だということでした。
これらのことから、南洲墓地に眠る西郷隆盛について、さまざまな想像が生まれたのでした。
しかし、今回の千田登文の「履歴書」で、西郷隆盛の首に関する論争は決着がついたようです。

「履歴書」によりますと、岩崎谷攻撃を担当したのは千田登文が属する歩兵第7連隊の所属する第4旅団です。
千田登文も城山に総攻撃をかけたひとりで、佐竹義方大尉が西郷隆盛の遺体を発見しました。
しかし、遺体には首がなく、西郷軍の誰かが、首を官軍に渡さないために、持ち去ったと考えました。
佐竹大尉らは、西郷隆盛の遺体を浄光明寺に運び、遺体は西郷隆盛と確認されました。
千田登文は西郷軍の洞窟に入り、桐野利秋ら13人の幹部の死体に名札を付け、その旨を浄光明寺にいる最高指揮官の山県有朋や旅団長の曽我祐準(すけのり)に連絡しました。
最高指揮官の山県有朋から、西郷隆盛の首を捜索する旨の命令を受け、千田登文は岩崎谷に引き返しました。
たまたま負傷してつかまった西郷軍の兵士から、西郷隆盛の従僕が手拭いに包んで折田家の邸内に入って行くのを見たという情報をつかみ、折田家を捜索しました。
すると、門の脇の小さな溝に、布でくるまれている何かを兵卒が見つけ、千田登文が見ると、大きな首でした。
浄光明寺に持参し、山県有朋・曽我祐準に検分してもらい、西郷隆盛の首と判明した状況が書かれています。
原文の一部ですが、「西郷ノ首ナキヲ以テ、登文ニ探索ヲ命ゼラル」
「探索ヲナシタルニ、果シテ門脇ノ小溝ニ埋メアルヲ発見シ、登文、首ヲ●(もたら)シテ、浄光明寺ニ到リ山県(有朋)参軍、曾我(祐準)少将ニ呈ス」とあります。