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歴史・文化


市来・伊集院・吹上の歴史や文化を知ることのできる指定文化財一覧表

日置市HPの指定文化財一覧表のおかげで、この地域の歴史や文化を知る足掛かりがつかめます。
まず、いくつかを紹介してみましょう。
縄文時代から平安時代にいたるまで、長期間使用された巨大な黒川洞穴からは、土器や石器等の道具類だけでなく約3000年前とされる埋葬された女性の骨も発見されました。
市来鶴丸城跡は、市来院を領有していた市来氏が築いた、標高約100m、周囲約3kmの山城です。
南北朝時代から戦国時代にかけて、たびたび戦いが行なわれた場所です。
また、宣教師のザビエルやアルメイダが訪れて布教した場所でもあります。
南北朝期の武将、伊集院忠国公と夫人、僧侶等の20数基の石塔が残っている円福寺跡は、伊集院郷中では最も古い寺です。
開山は息山和尚と由緒記にあり、平安末期には存在していたと考えられています。
古文書では、松崎勘助貞範の「日帳」もあります。
慶応3年(1867)元旦から9月23日までの日記です。
松崎勘助貞範は17歳で江戸勤務、その後に伊集院郷組頭になりました。
薩英戦争、長州征伐、戊辰戦争に参加し、越後小出島で戦死しました。
妙円寺にある石屋真梁木像は室町時代に作られた可能性が高く、江戸時代以前の仏教史料が失われている鹿児島では極めて貴重なものです。 石屋真梁(1345〜1423)は伊集院の妙円寺、島津本家菩提寺の福昌寺など多くの寺を開いた高僧です。
他にも、美山薩摩焼窯、堂平窯跡など、あります。
以下に日置市HPより国指定1、国登録2、県指定79、市指定62の文化財について紹介します。

東市来地域
国指定

種別:天然記念物
名称:ヤッコソウ発生地
所在地:湯田4008-2
湯田稲荷神社
概要:湯田稲荷神社裏山の、椎の木の根元に10月から11月に発生する顕花植物である。
高さが3〜4pでその姿が「奴(やっこ)」の歩く姿に似ているので、この名が付けられたとされている。

県指定

有形民俗
養母の田の神
養母2356-3
明和6年(1769)12月に庚申供養で建てられた。冠、袴を着け、笏(しゃく)を持った衣冠・束帯姿の石像である。
この形の田の神は、大隅半島北部には多いが薩摩半島では珍しい。


有形民俗
湯之元の田の神
湯田1821-2
笠をかぶり、袴を着け、右手にしゃもじを左手に椀を持ち、舞を舞っている形の田の神像。
元文4年(1739)3月に郷士たちが建てた。現在、周辺は住宅地になっている。


史跡
美山薩摩焼窯
美山973、974
「御定式窯(ごじょうしきがま)」とも呼ばれている。
美山の窯之平にある連房式登り窯で寛延年間(1748〜1751)に藩の御用窯として築かれた。
藩主もしばしば訪問し、製品は海外にも輸出されたという。約120年間使われ、明治初年に廃窯。

市指定

史跡
島津立久公墓地跡
(シマヅタツヒサコウボチアト)
長里3281
寛正3年(1462)に島津家10代当主立久は、市来氏を攻めて勝利し、市来に竜雲寺を建てた。
立久は文明6年(1474)に死去、遺言により竜雲寺に埋葬された。
墓は昭和3年に改葬され、現在は墓の祠が残っている。


史跡
伊作田兵部大夫道材の墓地
(イザクダヒョウブダユウドウザイノボチ)
伊作田2535
道材は南北朝時代中頃の伊作田城主で、南朝方として戦ったと伝えられている。
7基の五輪塔が並んでいるが、どれが道材の墓かは不明である。
1基には「比丘尼道性建武三年(1336)」と刻まれている。


彫刻
狛犬像二体及び仁王像二体
湯田4008-2(湯田稲荷神社)
湯田稲荷神社にある。
狛犬像は作られた年代は不明であるが、吽像(うんぞう)を島津忠国(在位1425〜1459)の時、鹿児島に移したとされている。
現在の吽像は正徳5年(1715)3月に庚申供養で再建したものである。
仁王像は鳥居の左右に建てられた、面貌鋭く精巧に作られた石像である。
高さ232pの阿像(あぞう)には正徳5年(1715)3月に建てたと刻み、高さ242pの吽像には石工・神主・あつかいの名前が刻まれている。


史跡
薩摩焼古窯五本松窯跡一基
(サツマヤキフルガマゴホンマツガマアトイッキ)
美山498-2、500
美山五本松の山の斜面にあり、現在は杉林に覆われている。
窯はすでに崩壊しているが、窯床の幅1m、長さ30mが残っている。
半円筒形単式傾斜窯であろうと推測される。
朝鮮半島の古い形式を受け継いだものであろう。


史跡
薩摩焼古窯南京皿山窯跡二基
(サツマヤキフルガマナンキンサラヤマガマアトニキ)
美山975
この窯は美山にある古窯のなかで最も規模が大きい。
弘化3年(1846)に調所広郷(ずしょひろさと)、村田堂元等によって開かれた染付白磁専用の窯である。
窯跡は2基が並列し、器物残片は、背後の斜面におびただしく捨てられている。


有形民俗
石敢當
(セッカントウ)
長里1569
高さ164pで、日置市内の石敢當の中でも最も大きい。
安永3年(1774)に魔よけのため杉之迫郷中が建てたものであるが、「右ゆのもととをり」の文字も刻まれているので、道標も兼ねていたと思われる。


無形民俗
伊作田踊り
(イザクダオドリ)
伊作田
江戸時代に始まったと伝えられる。
哀調を帯びた鉦に太鼓を交えた踊りである。
伊作田道材の慰霊、豊作祈願等のために行なうとされている。
現在では3年毎の8月中旬に、伊作田地区をあげて踊りつがれている。


建造物
荻前田橋
(オギマエダバシ)
養母11026前
昭和6年、養母の大里川の上流に架けられた石橋である。
東市来地域に残る34基の石橋でただ一つの2連式アーチ型の石橋である。
橋の長さは21.6mである。


彫刻
阿弥陀如来像三体
(アミダニョライゾウサンタイ)
養母6746
養母地区田代の東福家の氏神として祀られている3体の木像。
中央の木像の背面には、応永33年(1426)9月の墨書があり、鹿児島で最も古い木像の可能性がある。

10
史跡
かくれ念仏洞穴
(カクレネンブツドウケツ)
長里5311
江戸時代の薩摩藩では一向宗(真宗)を禁じて厳しく取りしまったので、信者たちはここに隠れてひそかに信仰を続けた。
洞穴の中には、空気孔や仏像を置いたと思われる棚なども残っている。

11
天然記念物
ヤッコソウ発生地
湯田3878
向湯田自治会の星原氏宅の裏山にあり、椎の木の根に毎年10月末から11月に発生している。
はじめは乳白色でやがて淡いピンク色から茶褐色に変わり、黒褐色となる。

12
建造物
下原の治水溝
(シモバイノチスイコウ)
湯田1592の先
1846年に薩摩藩の直轄工事によって造られたものである。
総延長約100mの三面側溝の石積みは、約45度の傾斜で階段状にできている。
160年以上を経た今でも少しの狂いもなく、当時の技術水準の高さを知ることができる。

13
無形民俗
北山の火振り
(キタヤマノヒフリ)
養母12263
毎年8月15日に北山自治会で行われる。
戦いに敗れた北山殿の霊を慰めるためという説や、無縁仏を供養するためであるという説などがある。
たいまつをつけた複数の孟宗竹を4〜5人がかりで激しく振る。

14
有形民俗
稲荷神社お田植え祭りの牛面
(イナリジンジャオタウエマツリノギュウメン)
湯田稲荷神社他
稲荷神社のお田植え祭りは戦前までは東西の市来住民が盛んに行なっていたが、現在は東市来町の湯之元校区が中心となって行なっている。
その際に使用されるのがこの牛面で、5点が存在している。

15
歴史資料
大明寺跡の石塔
(ダイミョウジアトノセキトウ)
湯田4010-2
大日寺(長里地区の鶴丸小学校の場所にあった)の末寺で、桂峯山宝持院大明寺と称していた。
この石塔には大明寺を移転した経緯を記してある。
高さ1.7m、横幅約45pの角柱である。

16
彫刻
青面金剛像
(ショウメンコンゴウゾウ)
湯田4008-2(湯田稲荷神社)
庚申供養で建てられたもの。
顔は憤怒の形相で、火焔の髪を逆立てている。
県内に100体以上あると推定されるが、ほとんどは大隅半島で、薩摩半島ではめずらしい。

17
史跡
市来鶴丸城跡
(イチキツルマルジョウアト)
市来院を領有していた市来氏が築いた、標高約100m、周囲約3kmの山城である。
南北朝時代から戦国時代にかけて、たびたび戦いが行なわれた。宣教師のザビエルやアルメイダが訪れ布教した。

18
考古資料
堂平窯跡
(ドビラカマアト)
美山1142
苗代川で築かれた最も古い窯跡と考えられている。
窯の構造は朝鮮系単室傾斜窯とされている。
西回り自動車道の建設に伴い発掘され移設保存された。

19
建造物
智賀尾神社の鳥居
(チカオジンジャノトリイ)
養母7352
鳥居の柱に慶安4年(1651)3月の建造と刻まれている。
上部の額束(がくづか)には梵字が刻まれており、これは神仏混合の時代の名残とおもわれる。


伊集院地域
県指定

無形民俗
大田太鼓踊り
(オオタタイコオドリ)
大田
大田報恩寺住職が、住民の慰安になるように、と考案したのが始まり伝えられている。
城攻めをかたどったとされ、進退のあざやかさに特徴がある。
10月第4日曜日の妙円寺詣りの日に徳重神社に奉納される。


無形民俗
徳重大バラ太鼓踊り
(トクシゲウバラデコオドリ)
徳重
朝鮮出兵に参加した島津義弘が明の大軍と戦うときに、高い幟を立て、大太鼓を打ち鳴らし、威嚇して勝利を得たことから始まったと伝えられている。
直径1.5mの大太鼓を使用する。妙円寺詣りの日に徳重神社に奉納される。

市指定
20
彫刻
徳重神社島津義弘公御神体
(トクシゲジンジャシマヅヨシヒロコウゴシンタイ)
徳重1786 (徳重神社)
島津義弘が妙円寺を自分の菩提寺と定め、仏師康厳に命じて自己の木像を彫刻させて納めたものである。
妙円寺が廃仏毀釈で破壊され、跡地に造られた徳重神社の御神体になっている。

21
古文書
伊集院由緒記
(イジュウインユイショキ)
下谷口
伊集院郷相談役大迫助右衛門が書いた「由緒記」は、「三国名勝図絵」の伊集院に関する部分の原本といわれ、これを書き写したものが「伊集院由緒記」である。

22
史跡
本田兄弟の墓碑
大田
戊辰の役で戦死した伊集院の郷士本田親正、親直の墓碑である。
兄弟の父と交流があり、兄弟を可愛がっていた西郷隆盛が明治2年に建立した。
碑面には西郷の直筆で追悼文が刻まれている。

23
彫刻
梅岳寺舜有和尚木像
(バイガクジシュンユウオショウモクゾウ)
学識の高さで知られた舜有は、天文年間(1532〜1555)に島津忠良(義弘の祖父)と息子の貴久(本家15代太守)に学問の師として迎えられた。
この木像は舜有が住職であった梅岳寺に納められていたものである。

24
歴史資料
大渡橋記念碑
(オオワタリバシキネンヒ)
寺脇54-3近く
嘉永3年(1850)11月20日に着工、翌年2月8日竣工した石造眼鏡橋に伴って作られた碑である。
刻まれた文字は西郷隆盛のものと伝えられている。

25
歴史資料
永平橋記念碑
(エイヘイバシキネンヒ)
下谷口1926-1前
嘉永3年(1850)11月29日に着工、翌年1月20日竣工した石造眼鏡橋に伴って作られた碑である。
碑に刻まれた文字は西郷隆盛のものと伝えられている。

26
歴史資料
山王神社棟札
(サンオウジンジャムネフダ)
足利時代の僧永倫が明応5年(1496)2月に堂宇を修理したと記されている。
伊集院地域内に残存する棟札としては最も古いとされている。

27
史跡
伊集院忠国公夫婦の墓碑を含む円福寺墓地群
寺脇663
開山は息山和尚と由緒記にあり、伊集院郷中では最も古い寺で平安末期には存在していたと考えられている。
南北朝期の武将伊集院忠国と夫人、僧侶等の20数基の石塔が残っている。

28
歴史資料
有馬新七先生墓碑
下谷口1530
幕末の志士有馬新七は、薩摩における尊王攘夷運動の中心として活躍したが、文久2年(1862)に寺田屋事件で死亡した。
昭和47年に南林寺墓地撤去により現在地に移された。

29
歴史資料
石谷高久墓碑
(イシタニタカヒサボヒ)
徳重341
石谷が町田(後に石谷と改姓)高久の領地になったことを、伊集院氏は不満に思い、宝徳1年(1449)に高久を呼び出し、墓碑がある場所で暗殺したと伝えられている。

30
書跡
伏波の額
(フナミノガク)
徳重1786
徳重神社
藩主島津斉宣が、文化3年(1806)に藩政の一大改革を成功せしめ給えと祈念して奉納したもの。

31
建造物
有馬秀四宅武家屋敷門
(アリマヒデシタクブケヤシキモン)
下谷口1836 (伊集院小学校)
伊集院郷の地頭仮屋の門で、個人の所有となり個人宅に移転されたが、昭和60年6月に伊集院町へ寄贈され、仮屋があった伊集院小学校へ移された。

32
古文書
松崎勘助貞範の「日帳」
(マツザキカンスケサダノリノ「ニッチョウ」)
大田
松崎勘助の慶応3年(1867)元旦から9月23日までの日記である。
勘助は17歳で江戸勤務、その後に伊集院郷組頭になった。
薩英戦争、長州征伐、戊辰戦争に参加。越後小出島で戦死した。

33
古文書
松崎勘助貞範の「御軍令」
(マツザキカンスケサダノリノ「ゴグンレイ」)
大田
松崎勘助が長州征伐で伊集院の什長として出征したときに書記したもの。
軍令の写し、戦場での掟等が記載されている。

34
古文書
上村得三藤原清緝の道中記
(カミムラトクゾウフジワラキヨツグノドウチュウキ)
猪鹿倉
京都警備のため、伊集院50余名、郡山20余名で1個小隊が編成され、京都に駐在し警備と訓練にあたった。
上村得三は什長として参加。
そのときの文久3年(1863)から慶応2年(1866)までの日記である。

35
史跡
麦生田平等寺跡史跡の入定窟及び石塔を含む25u
(ムギウダビョウドウジアトシセキノニュウジョウクツオヨビセキトウヲフクム25u)
麦生田42
平等寺は嘉禄年中(1225〜1227)に建立された。
初代の住職頼遍法師の入定窟で、建長2年(1250)の刻字がある。
周辺には荘厳寺18世の石塔や税所氏の石塔がある。

36
古文書
せんさく記
下谷口
有馬高規が郷中教育の掟を慶応2年(1866)4月に筆記したもの。
伊集院郷の二才郷中教育の規範であったと思われる。

37
彫刻
阿弥陀如来立像
竹之山
江戸時代に仮屋に安置されたと伝えられている。
廃仏毀釈で仏像が破壊されるのを惜しみ、名頭の家に隠したという。
南北朝期の地方的作品と推定される。

38
彫刻
磨崖佛
(マガイブツ)
下谷口1887
巨岩の表面を磨いて阿弥陀三尊像が刻まれている。
中央に阿弥陀如来、右に脇侍観音、左に勢至で、脇侍が跪座して如来を迎えるのは珍しい。
裏面には解読不能の変わった梵字が刻まれている。

39
史跡
木脇大炊介祐兄墓塔
(キワキオオイノスケスケヨシボトウ)
恋之原
祐兄は戦国時代後期の武士で、島津本家15代太守貴久が敵対する島津実久に攻められ、清水城(現鹿児島市)を脱出する際に貴久を守った。
ほかにも功績があり、伊集院の恋之原に土地をもらい、ここで亡くなったとされている。

40
彫刻
石屋真梁木像
(セキオクシンリョウモクゾウ)
徳重521(妙円寺)
石屋真梁(1345〜1423)は伊集院の妙円寺、島津本家菩提寺の福昌寺など多くの寺を開いた高僧。
木像は、室町時代に作られた可能性が高く、江戸時代以前の仏教史料が失われている鹿児島では極めて貴重なものである。

国登録
1
有形
大田発電所
(オオタハツデンショ)
大田 明治41年(1908)に島津家によって建設され、現在も使われている。
広さ15b×12b、高さ10bの石造り平屋の水力発電所。
壁面には島津家の家紋「くつわ紋」が刻まれ、8角形の塔がついた特徴ある造りである。

日吉地域
市指定
41
史跡
八幡神社
(ハチマンジンジャ)
日置5301-1
祭神は天照大神、天津彦彦火瓊々杵尊、?(ろう)幡千々姫命、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后。
文禄4年(1595)に日置島津3代常久によって、日置52社の総鎮守となっている。
毎年6月の第1日曜日に「せっぺとべ」が行われている。

42
史跡
大乗寺跡
(ダイジョウジアト)
日置5680
大乗寺は島津15代太守貴久の夫人雪窓の建立によるもので開山は一岳等忍和尚である。
文禄4年(1595)に日置島津3代常久は初代歳久の冥福のためここを日置島津家の菩提寺にしたという。
明治初年の廃仏毀釈で廃寺となった。

43
史跡
鬼丸神社
(オニマルジンジャ)
吉利4827  
祭神は禰寝家16代右近太夫重長である。
重長は大隅地方に勢力を振るい剛勇の聞こえ高く、善政を布いたため慕われたという。
その子重張は小根占から吉利領主に移封されたのでここに鬼丸神社を建立して父の霊を祀った。

44
史跡
園林寺跡
(オンリンジアト)
吉利5004-4  
建立は応永24年(1417)で、文禄4年(1595)に禰寝重張が吉利に移封された時小根占からこの地に移した。
初代清重以下の霊を集め祀る外、17代重張以下歴代領主の墓があり、明治維新の功臣小松帯刀の墓もある。

45
史跡
深固院跡
(ジンコインアト)
吉利7586外  
開山は薩藩禅宗の開祖石屋真梁和尚である。
石屋は元中3年(1386)に深固岳の北麓に草庵を結び深固院と名付けて布教を始めた。
寺はその後なくなったが貞享3年(1686)吉利領主21代清雄の時に再興した。

46
史跡
鹿児島塚跡
(カゴシマヅカアト)
吉利2750  
天文2年(1533)に桑波田孫六と島津実久(薩州家)は南郷城を奪回するため兵を進めたが、島津忠良と貴久(本家15代太守)に敗北した。
鹿児島塚はこの時の戦場の後始末で集めた敵の武具類を埋めたものとされている。

47
有形民俗
岩屋観音
(イワヤカンノン)
日置 2154-1  
子宝と安産に霊験あるとして参詣が多い。
山田家15代有信の奥方は子がなく、岩屋観音に男子を授かるよう祈願した。
天正6年(1578)に男児が産まれたが、奥方はすぐに亡くなったという。
この子が高名な武士山田昌巌である。


48
有形民俗
山田の田の神
(ヤマダノタノカミ)
日置 47-1前
水神と並んで祀ってある。
道路改修や土地の崩落などで何回か移動し、平成6年に現在地に安置された。
田の神には年代は刻まれていないが、水神には宝永7年(1710)と刻まれており、同年代に作られた可能性がある。

49
史跡
吉利神社
(ヨシトシジンジャ)
吉利5293  
祭神は鎌倉權五郎景政をはじめ、8座の神である。
鎌倉景政は後三年の役(1083~1087)で敵将鳥海弥三郎に左眼を射られたが、その矢を7日間も抜かずに弥三郎を追い、これを射殺して勇名をとどろかしたと伝えられている。

50
彫刻
乳地蔵
(チチジゾウ)
吉利7576  
布袋様に似た石像を中心に子供達の像が並んでいる。
これが乳地蔵で、昔はこの地蔵に参拝すると乳がよく出るようになると伝えられ妊産婦の参拝者が遠くからも来ていたということである。

51
史跡
光禅寺跡
(コウゼンジアト)
日置352  
日置初代島津歳久の夫人(悦窓院)は、慶長7年(1602)に瑞岳和尚を招いて寺院を建てた。
これが瑞喜山光禅寺となった。
3代領主島津常久と同夫人、初代歳久公夫人その他島津家ゆかりの人や殉死した家臣の墓などがある。

52
史跡
桂山寺跡
(ケイザンジアト)
日置3253, 3258
日置3代領主島津常久は一岳等忍和尚に寺を再興させ、ここを父忠隣の菩提寺とした。
忠隣は、天正15年(1587)に羽柴秀長の大軍と日州根白坂で戦い、戦死している。
西郷隆盛に影響を与えたとされる赤山靭負の墓もある。

53
史跡
熊野神社
(クマノジンジャ)
日置 1237-1
建久7年(1196)島津家初代忠久が、薩摩国に下向の折、沖で暴風雨に遭った。熊野権現に暴風を静めるよう祈願すると、波が静まり着船上陸できたので、忠久は深く神の恩に感謝しこの地に神社を建立したと伝えられている。

54
彫刻
釈迦木像
(シャカモクゾウ)
日置3309-2  
高さ73センチ、横37センチで像の背面に記された文字によると、脇菩提院の本尊として文明5年(1473)5月10日から製作にかかり、同年7月2日に完成している。

55
彫刻
六代木像
(ロクダイモクゾウ)
吉利3017-2(清浄寺) 平維盛の長男六代の木像で、高さ40cmの大きさで現在吉利の清浄寺に安置してある。
維盛は平清盛の孫なので六代は清盛の曾孫にあたる。
六代の子次郎が、吉利禰寝家(後に小松と改姓)の初代清重と伝えられている。

56
絵図
吉利郷総絵図
(ヨシトシゴウソウエズ)
中原2568 (吹上歴史民俗資料館)  
元禄12年(1699)に小松家21代清雄が領内を調査させてできたものが破損したため、宝暦3年(1753)に複写したものである。
縦3.5m、横幅3mの大軸幅で描写は鳥瞰図で、領主館、神社仏寺の輪郭や武家屋敷の配置から山川草木に至るまで詳細に描かれている。


57
書跡
扁額「醫王寶殿」
(ヘンガク「イオウホウデン」)
日置3309-1(明信寺)
足利3代将軍義満の書と伝えられている。
額の左側に小さく「鹿苑院殿台翰」の文字が見える。
鹿苑院とは足利義満の戒名で、台翰は書に対する敬語である。
後世の人が、義満が書いたことを示したものであろう。



58
工芸品
小松家の鎧一式
(コマツケノヨロイイッシキ)
鹿児島市城山町7-2 (黎明館)
禰寝家9代久清の時(南北朝時代)に作られたとされている。
16代重長が大事に使っていたとされ、重長を祀る鬼丸神社のご神体である。
長く吉利小学校の史蹟館に収めていたが、兜は盗難に遭い、鎧一式が残っている。

59
無形民俗
お田植え踊
(オタウエオドリ)
日置5301-1
6月の第1週の日曜日に日置八幡神社と鬼丸神社でお田植え踊りが奉納されている。
「八幡の棒踊り」「日新の鎌踊り」「山田の鎌踊り」「諏訪の笹踊り」「吉利の鎌踊り」「扇尾の虚無僧踊り」がある。
日置八幡神社

60
無形民俗
太鼓踊
(タイコオドリ)
日置・吉利
吉利では8月23日に南区・中区・北区が輪番制で、日置では諏訪と八幡が8月28日に南方神社を中心に踊りを奉納している。
起源については慶長13年(1608)ごろとの説もあるが明らかではない。

61
彫刻
石屋和尚手彫りの石地蔵(セキオクオショウテボリノイシジゾウ)
日置1234  
石屋和尚(1345〜1423)が持地庵の本尊として自分で彫った石の地蔵菩薩とされている。
左手に宝珠、右手に錫杖を持った地蔵菩薩の石像である。

62
史跡
毘沙門天(ビシャモンテン)
日置9089-3   石碑に「毘沙門天王」の字が刻んである。
伊集院の一宇治城主紀時清が、城の守り神として安置したとされている(1180年頃)。
天文19年(1550)に島津貴久が一宇治城を攻め落とし、毘沙門天を日吉へ移したと伝えられている。


吹上地域

県指定

6
史跡
常楽院(ジョウラクイン)
田尻705-2  
建久7年(1196)に、島津家の祈祷僧として島津初代忠久に従って薩摩に下った宝山検校が、田尻中島に常楽院を建立したと伝えられている。
薩摩琵琶発祥の地とも伝えられている。

7
史跡
亀丸城跡
(カメマルジョウアト)
中原3427
伊作島津氏の本拠地であった伊作城の本丸である。
県内でも屈指の巨大な山城である。
伊作島津氏10代忠良、関ヶ原の戦いで知られる義弘、その兄弟の義久・歳久・家久の生誕地であり、築城の技術からも貴重である。

8
無形民俗
伊作太鼓踊
(イザクタイコオドリ)
湯之浦、和田、入来、中之里、田尻、花熟里

美麗な衣装の中打を中心に、太鼓を胸に矢旗を背負った平打が周りを囲み、中打の鉦のリズムに合わせ太鼓を叩き、矢旗を振り勇壮活発に踊る。
毎年8月28日に南方神社に奉納し、その後各地を巡り踊る。

9
有形民俗
中田尻の田の神
(ナカタジリノタノカミ)
田尻2063-1  
享保2年(1717)の建立で、年代が明らかなものとしては県内でも古いものである。
高さ約1メートル、杓子を持った地蔵型立像の田の神である。

10
芸能
妙音十二楽
(ミョウオンジュウニガク)
田尻705-2(常楽院)  常楽院に南九州各地の僧が集まり、琵琶・太鼓・笛・ほら貝等の8種の楽器によって合奏する古典音楽。
寺院で演奏されていた宗教音楽の流れをくむ特色ある芸能といえる。
毎年10月12日に演奏される。

11
無形民俗
大汝牟遅神社の流鏑馬
(オオナムチジンジャノヤブサメ)
中原2263 (大汝牟遅神社)  
天文7年(1538)年、伊作島津氏10代忠良は加世田城を攻める前の戦勝祈願で、流鏑馬の奉納を誓った。
その夜のうちに加世田城を攻略できたので、奉納するようになったとされている。毎年11月23日に大汝牟遅神社で行われる。

12
史跡
黒川洞穴
(クロカワドウケツ)
永吉9185  
縄文時代から平安時代にいたるまでの長期間使用された巨大な洞穴。
黒川式と名づけられた土器や石器等の道具類、大量の貝殻、動物の骨が発見された。
また、約3000年前とされる埋葬された女性の骨も発見された。

13
彫刻
吹上町田尻の金銅菩薩立像(フキアゲチョウタジリノコンドウボサツリュウゾウ)
鹿児島市城山町7-2 (黎明館)
飛鳥時代に造られた古式菩薩立像の典型的な作例で、宝珠捧持菩薩立像の形を取る。
高さ16.3cm。
九州でも最古の仏像の可能性がある。
上田尻地区住民による「お観音講」の信仰の対象として伝わる。
吹上歴史民俗資料館にレプリカが展示されている。

14
古文書
伊作郷御仮屋文書 (イザクゴウオカリヤモンジョ)
中原2568 (吹上歴史民俗資料館)
伊作郷(吹上地域南部)に関する、主に江戸時代の公文書。
当時の役所である御仮屋で作られた。
その膨大な量の史料は、薩摩藩の地方支配を知るうえで不可欠なものと認められ、県指定文化財となった。

市指定
63
歴史資料
日新柱
(ジッシンバシラ)
中原2485(伊作小学校) 伊作島津氏10代当主忠良(日新公)が幼い頃、教育を受けた海蔵院で柱に縛られ訓戒を受けたと伝えられる。
このときの建物は焼失したが、後に建築された柱の1本を「日新柱」と称して保存している。

64
彫刻
蛭子像
(エビスゾウ)
中原2980-3(蛭子神社) 島津忠良(日新公)が蛭子像2体(高さ36p)を彫刻し、蛭子神社に安置したと伝えられる。
文化3年(1806)に紛失したので新しく2体作ったが、文化9年に発見されたので、新旧4体の蛭子像が供えられている。

65
古文書
吹上古文書
(フキアゲコモンジョ)
中原2568 (吹上歴史民俗資料館)
明治・大正時代の伊作村の公文書と永吉の古文書等を主にした243点の古文書。
明治・大正時代の地方行政を知るうえで貴重な史料である。

66
史跡
多宝寺跡
(タホウジアト)
中原3143,3243  
島津氏の分家であった伊作島津氏代々の菩提寺。
歴代の領主(3代及び10代を除く)と婦人の墓がある。
10代当主忠良は、九州の大半を支配した戦国島津氏の基礎を作った人物。
多宝寺跡には忠良の両親と娘の墓がある。

67
史跡
天徳寺跡(テントクジアト)
湯之浦2275の一部
建保1(1213)年に東福寺として創建。
後に天徳寺と改名。
伊作島津氏3代親忠は、ここを菩提寺とした。
伊作郷最古の寺院とされている。
親忠、その弟の久氏、島津宗家5代貞久等の墓が残っている。

68
史跡
天昌寺跡
(テンショウジアト)
永吉14884-6  
元中2(1385)年に石屋禅師が建立した。
日向佐土原城主島津豊久は、関ヶ原の戦いで伯父の島津義弘を守って戦死した。
豊久の遺臣は永吉に移住、豊久の墓をここに建てた。
以後は永吉島津氏の代々の菩提寺になった。

69
史跡
田中城跡
(タナカジョウアト)
和田2145-1の一部  建久年間(1190年代)に和田八郎親純が居城したと伝えられる。
親純は平姓伊作氏の養子となり、伊作郷を領し伊作地頭の職を子孫に伝えた。
一族は大いに繁栄したが南北朝の動乱を境に衰えていった。

70
史跡
南郷城跡
(ナンゴウジョウアト)
永吉14011-1  
鎌倉時代の日置南郷の郡司であった覚弁を始祖とする桑波田氏の居城であった。
深い谷と絶壁に囲まれた雄大賢固な山城である。
天文2年(1533)、城主桑波田孫六が島津忠良(日新公)にそむいたので、攻め落とされた。

71
天然記念物
千本楠(センボングス)
中原2303-1・3  
大汝牟遅神社の参道東側に10数本の巨楠の森がある。
倒れ伏して朽ちた楠は、根回り18mもあったという。
明治43年に博覧会に出品した切株によると、樹齢800年以上と推定された。

72
史跡
梅天寺跡
(バイテンジアト)
永吉3761-2  
元中2(1385)年石屋禅師が建立した妙法寺を、永吉島津氏が梅天寺と改めた。
永吉島津氏初代の家久の墓や五輪塔などが残っている。
家久は伊作亀丸城で生まれ、島津の九州制覇の先頭で戦った戦国武将である。

73
史跡
小緑山西福寺跡
(コミドリサンセイフクジアト)
入来326  
臨済宗多宝寺の末寺で開山普宅和尚の墓がある。
普宅和尚が水神から授かったと伝えられる水剣には、水難や火難を防ぐ力があるとされ、水剣の絵を家に掲げる風習が明治まで続いたという。

74
記念物(史跡)
海蔵院跡(カイゾウインアト)
湯之浦2170-2他  
真言宗の寺院で応永5(1398)年に創建で、伊作郷最大の寺院であった。
島津忠良(日新公)は7歳から15歳まで当院8代住職頼増の教育を受けた。
五輪塔・宝篋印塔・月輪塔など80数基の様々な石塔が残っている。

75
工芸品
琵琶(ビワ)
中原2568 (吹上歴史民俗資料館)  
薩摩琵琶の原型になったとされる盲僧琵琶を含む琵琶3面。中島常楽院の所蔵。

76
絵画
掛軸(カケジク)
中原2568 (吹上歴史民俗資料館)  
中島常楽院所蔵の絵の掛軸。釈迦如来涅槃絵図、宝山検校絵像がある。

77
古文書
古文書(コモンジョ)
中原2568 (吹上歴史民俗資料館)  
中島常楽院の所蔵の古文書で、歴代住持の系図である。


78
建造物
浜田橋(ハマダバシ)
永吉15797先  
永吉川下流にかけられた3連アーチの石橋で、大正2(1913)年に造られた。
石材は近くの浜田石を使用したという。
長さ45m、幅4.1m、高さ6.5mで、実際に使われている石橋としては県内で最も長いとされている。

79
彫刻
吹上町小牧の阿弥陀如来像
中原2568 (吹上歴史民俗資料館)
本作は島津忠良(日新公)と養父の運久が、大永6年(1526)に作らせた可能性が高い。
忠良は戦国時代の武将で、島津本家15代当主になった息子の貴久を助け、弱体化した島津本家を立て直した。鹿児島の歴史上の重要人物である。

国登録
2
有形
旧黒木回春堂医院(キュウクロキカイシュンドウイイン)
永吉14307
かつては医院として造られた木造平屋の洋風建築の建物である。
昭和3年に建てられ昭和53年まで開業していた。
洋風ではあるが、随所に和風建築の技術が生かされた特徴ある造りである。