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大正2年開業の川内線「串木野停車場」「西市来停車場」について

いちき串木野市の広報紙「いちき串木野」2014年1月20日発行VOL99では、「鉄道開業100年」という題で、大正2年の串木野停車場、西市来停車場の開業等をとりあげています。

明治時代、串木野から鹿児島までは、高価な馬車でも6時間かかりました。
運賃は58銭。米五升分の値段で、かなり高価な乗り物でした。
大正2年の鉄道開業で、鹿児島まで2時間で行けるようになりました。
当時の蒸気機関車の速度は時速28kmですが、それでも、以前の交通手段に比べれば驚くべき速さでした。

現在も「鹿児島本線」という路線はありますが、現在の「肥薩線」が「鹿児島本線」と呼ばれていた時代があります。
「肥薩線」(旧鹿児島本線)のほうが先に建設された背景には、ロシアの脅威がありました。
バルチック艦隊の艦砲射撃を恐れ、国防上の理由から内陸部の建設になりました。
明治34年6月10日に鹿児島~国分(現在の隼人駅)間の「鹿児島線」が営業を開始します。
運賃が鹿児島~国分で30銭、当時では、米三升分の値段でかなり高額だったようです。
明治42年11月21日に人吉~吉松間の「鹿児島本線」(現在の「肥薩線」)が開通します。

鹿児島では、結果的には内陸部の鉄道路線が優先しましたが、当初の路線選定の時から、長谷場純孝代議士は、西回り建設を主張しました。
長谷場代議士は串木野村出身の代議士です。
第14代衆議院議長(任期1908年12月23日~1911年9月6日)、第22代文部大臣(第二次西園寺内閣時 1911年8月30日~1912年11月9日)、第17代衆議院議長(任期1914年3月7日~3月15日)を務めました。
長谷場代議士は、串木野村出身という「我田引水」からではなく、国家経済上の見地から、人口が多い沿岸部の西回りを主張しました。
明治41年に鹿児島~川内間の鉄道建設が決定しました。
長谷場純孝代議士の胸像が、串木野駅前広場に建立されたのは昭和35年4月3日のことです。

大正2年10月11日に、川内線として東市来駅-鹿児島駅間が開業します。
同年12月15日には、川内線 串木野駅-東市来駅間が開業します。
当時は、駅を「串木野停車場」「西市来停車場」と呼称していました。
大正3年1月18日、桜島が大爆発し、その際、被災者輸送に、臨時列車が運行されています。
大正3年6月1日には、川内線 川内町駅(現在の川内駅)-串木野駅間が開業しました。
昭和2年10月17日に、門司~鹿児島まで全通すると、八代駅-川内駅-鹿児島駅間を「鹿児島本線」とする名称変更が行われました。
従来の「鹿児島本線」(八代駅-人吉駅-鹿児島駅間)は「肥薩線」と名称が変更されます。
また、この時、武駅を西鹿児島駅に改称しました。

鉄道輸送により、駅を中心に地域も発展していきます。
市来地域では、焼酎造りが昔から盛んでした。
焼酎カメ、仕込んだ焼酎を蒸留するための木炭、石炭、みかん山用の肥料なども汽車で運びました。
また、市来はレールの下に敷くバラス石の産地でもあったため、市来駅には専用の引き込み線が引かれ、専用貨車もありました。
市来駅は昭和2年10月13日に駅舎を増築し、その後、昭和18年には前年の暴風雨で被害があったため、改築をしています。
昭和30年代に現在の駅舎に改築しています。

串木野駅では、牛やマグロの積み出しが行われ、かまぼこやつけあげの原料となるフカ・エソの魚を水産業者へ発送していました。
また、串木野駅には、三井鉱山や竹岸畜産工業(現在のプリマハム)などの事業所の専用引き込み線と荷積み場もありました。
串木野駅は、長らく開業当時の面影を残していましたが、老朽化のため、平成18年12月に解体し、平成19年3月18日に改築されました。
新駅としては、平成22年3月13日に、神村学園前駅が開業しています。