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湧水町の田尾原遺跡から約1万6千年前の旧石器時代の礫群が出土

湧水町教育委員会では、記録保存を目的とした、田尾原遺跡の全面発掘調査を、7月末から開始し、12月3日に終了しました。
田尾原遺跡は、県の指定文化財となっている「田尾原九供養塔群」の眼下に広がっており、また遺跡の近くには同じく県指定の稲葉崎供養塔群があります。
平成23年度の調査で、遺跡の存在が確認されました。
しかし、遺跡場所は、中山間地域総合整備事業「供養塚農道整備」を実施することとなっており、工事によって遺跡が破壊されます。
そのため、記録保存を目的とした、田尾原遺跡の全面発掘調査となりました。
湧水町の広報紙「広報 ゆうすい」2013年10月Vol.103~2014年1月Vol.106に速報が出ています。

「広報 ゆうすい」によりますと、発掘調査は約1,600㎡、土の層は表土、アカホヤ火山灰(約7,300年前に屋久島の北にある硫黄島付近の鬼界カルデラから飛んできた火山灰)、黒褐色土、茶褐色土、明茶褐色土、シラス(約2万9千年前に鹿児島湾奥の姶良カルデラが大爆発を起こした時の火山灰)の層序で成り立っています。
発掘により、旧石器時代の礫群、縄文時代の土器や石器の破片などが約800点発見されました。

旧石器時代の礫群(9個の礫が1カ所に集中したもの)が、シラス層(約2万9千年前に鹿児島湾奥の姶良カルデラが大爆発を起こした時の火山灰)から、発見されました。
この礫群は、今から約1万6千年前に使われていたものではないかと推定しています
縄文時代より以前の、旧石器時代の生活跡が町内で発見されるのは初めてです。
周囲のシラス層上面には全く礫が見られないのに対して、1カ所に人為的に集められています。
この旧石器時代の礫群も、調理場跡と考えられる「集石遺構」と同じ性格のものと推測されます。
出土した礫を観察すると、火の熱を受けて黒く焦げついた部分があることや、被熱により膨張して細かい亀裂が生じていることがわかりました。
この礫群の周囲からは、旧石器時代終末の代表的な石器である細石刃を剥いだと思われる黒曜石片が数点出土しています。

茶褐色土の層より、約9千500年前の、縄文時代早期の土器の破片が発見されました。
土器を焼きあげる前、粘土の表面に貝殻のふちを押し当てて横へひいた文様(条痕文)が見られます。
円筒形を呈した深鉢土器の上層部の破片で、厚さが1センチを超える厚みのある大形の土器だと推測されます。
ものを煮炊きするのに使われたものと思われます。

縄文時代の石器の一つで、石さじと呼ばれる石器も、縄文時代早期の層から出土しています。
動物の皮をはいだり、肉を切ったりする道具と考えられています。
出土した石さじは、残念ながらつまみの部分と刃部の先端部分が欠けていますが、刃部は、のこぎり歯状の刃が丁寧に作りだされています。
チャートと呼ばれる石材を加工しており、つまみの部分にひもをくくりつけ、腰にぶら下げて携帯用ナイフとして使用していたものと考えられています。

たくさんの石が一カ所に集中している「集石遺構」も発見されました。
これは、縄文人の調理場跡と考えられます。
たくさんの石を火で焼き、焼けた石の中に葉っぱでくるんだ肉や魚を入れた後、土を覆って蒸し焼きにした跡と考えられています。
蒸し焼きが終わり、取り除かれた石が散在したもので、石の中には、赤く被熱したものもありました。

調査も終盤に、中世の頃に築かれたと思われる溝状の遺構が発見されました。
遺構は、約7,300年前の鬼界カルデラの噴出物である、アカホヤ火山灰層の面で発見されました。
遺構内は、検出面の黄橙色をしたアカホヤ火山灰と違い、黒っぽい色の土で、ブロック状にアカホヤ火山灰を含んでいます。
この黒っぽい土を掘り下げて取り除いたところ、V字状に堆積していることがわかりました。
遺構の幅は検出面で1m20㎝前後、深さ約1mです。
調査を進めた結果、溝状の遺構であることが確認されました。
溝の底の高さを測定したところ、ほとんど同じ高さで勾配がないことから、水が流れる水路とは異なり、空堀であることがわかりました。
この空堀は、四社家の屋敷跡を巡る堀に類似しています。
(四社家は、鎌倉初期、大隅国の一部を支配していた大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)の世襲神職として権力を有していました。)
従って、この地域一帯を支配していた権力者の屋敷を巡る、侵略を防御するための堀ではないかと推測されます。
堀の底からは、8~10世紀ごろの須恵器と呼ばれる土器の小片や、中国から移入された13~14世紀ごろの青磁の器のかけらが出土しています。
なお、堀はアカホヤ火山灰層(約7,300年前に屋久島の北にある硫黄島付近の鬼界カルデラから飛んできた火山灰)の面で検出されましたが、田尾原地区は昭和40年代前半に構造改善事業による造成が行われており、堀は構築面から約40~50㎝ほど削平されたものと思われます。
従って、堀は幅約2m前後、深さ約1.5mの規模のものだと推定されます。
また、四社家の屋敷跡では、堀に沿って屋敷のある内側に土が高く盛られた土塁も築かれています。
田尾原遺跡も土塁が築かれていたとすると、堀のそこから土塁上部まで約3mの高さがあったことが想定されます。
屋敷を守る強固な防御壁が築かれていたと推測されます。
堀に埋まった土は、底に至るまで非常にやわらかく、同じ土が堆積していることから、何らかの歴史的要因により短時間で埋め尽くされたことが考えられます。