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教育


奄美大島における女子教育は、カトリック教会と密接な関連

奄美大島における女子教育は、カトリック教会と密接な関連があります。
薩摩藩からの圧政に耐えてきた人々は、万民平等という西洋思想に惹かれ、その結果としてキリスト教に期待を寄せました。
明治20年代にカトリックが布教を開始し、島民の要請により、大正12年には大島高等女学校が設立されました。
鉄筋コンクリート造りの校舎は鹿児島県下では初めてのもので、向学心豊かな女学生たちは、卒業後の進学率も素晴らしいものでした。
しかし、昭和5年ごろから、カトリック教会・信者ならびに女学校への攻撃・破壊がなされ、昭和9年に廃校を余儀なくされました。

鹿児島純心女子学園HPと南日本新聞ウェブ版奄美群島応援コラム奄美なひととき (マリアの島の祈り 宮下正昭)によりますと、鹿児島には鹿児島純心女子学園というミッションスクールがあります。
その学園の前身は、奄美大島の大島高等女学校です。
九州におけるカトリック活動は、長崎司教区に属しています。鹿児島県と沖縄の教会活動はパリ・ミッション会でしたが、大正10年にカナダ管区フランシスコ会に委託されました。
当時のフランシスコ会の地区長、ベルタン師が初めて奄美大島を視察した際、島民から高等女学校の創設を懇請されました。
長崎司教やカナダ準管区長と相談の結果、大島高女が創立されました。
鹿児島県で初めての鉄筋コンクリート造りの校舎でした。
教師たちは、カナダから招聘された無原罪聖母宣教女会のシスターたちで、10年間の滞在期間中、延べ12名のシスターが来島し、日本人教師たちと協力 し教育に当たりました。
生徒たちも向学心にあふれ、優秀で、特に、1,2回生たちは首都圏の上級学校(東京女子医学専門学校、東京上野音楽学校)へと進学しています。

奄美大島でのキリスト教は、薩摩藩時代の奄美大島への圧政と関連があります。
島の有力者たちは、平等の意識をもつ西洋思想に期待を寄せました。
それ以前に、島に主だった宗教がなかったことや、ハンセン病などの診療所や教会建設などで島の人々に現金収入も与えたこともあり、カトリックは島に浸透していきました。
しかし、昭和5年ごろから、軍部の要塞があった土地柄か、大島高女に対する圧迫が始まりました。
昭和8年ごろには、軍部を後ろ盾とする「奄美国防研究会(一部の町会議員と新聞記者によって構成)が名瀬町民大会を開催し「公教立大島高等女学校認 可取消処分に関する意見書」をとりまとめて文部大臣、外務大臣、海軍大臣等に送付しました。
廃校への運動は過激で、昭和9年3月、大島高等女学校は廃校を余儀なくされました。

日本国内で、一般的にキリスト教に対する敵視が強まるのは、昭和12年以降ですから、奄美大島北部のカトリック排撃運動はかなり早いものといえます。
「スパイの学校」と非難された大島高女がつぶれても、排撃運動は終わらず、軍幹部は各集落に出向き、非国民と恫喝し、転宗を迫りました。
昭和9年末、カナダ人神父らが全員、島から去ると、教会は襲撃の対象となり、酒に酔った若者たちが秋名教会を壊した事件は全国的にも大きく報道されて 外務省にも動揺を与えました。
大笠利教会も全焼しましたが、原因は放火だったと言われています。
転宗しない信者宅は、防空演習の標的となり消防団が放水、室内を水浸しにされました。
襲撃されなかった教会は役場や地区の集会場として転用され、このような状態が敗戦まで続きました。